鈴木大拙「禅堂生活」を読む

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今日岩波文庫から出ている鈴木大拙の「禅堂生活」は、1934年に英文で出版した The Training of the Zen Buddhist Monk を翻訳したものである。それに、日本語で書いた五編の小文を併載している。

英語原文は、欧米の読者を対象に書かれており、同年の著作 An Introduction to Zen Buddhism とともに、禅仏教の入門書として広く読まれた。この「禅堂生活」は、タイトルにあるように、禅堂における修行について書いており、欧米の読者に向かって禅の実践についての基礎的知識をさずけるのが狙いである。日本人でも、日頃禅に親しみのないものには、禅寺での修行がいかなるものか、漱石の「門」を思い浮かべたりしながら、理解する手助けになるであろう(漱石の「門」には、明らかに鈴木大拙と思われる若き修行者が出てくる)。

一般人が禅門に入ることを許される「入衆」に始まり、禅堂での生活の心得、禅の修行をへて修行の完成・卒業としての飽参に到るまでの過程をわかりやすく説明している。入衆を許されるには手荒い歓迎を受けること、禅堂での生活は非常に禁欲的できびしいものであること、修行は言葉と論理ではなく座禅と直感によることなどが説かれたあと、禅堂生活を卒業して飽参するものは多くはないと指摘される。その理由は、「禅は選ばれた者のためにあり、特に恵まれた英霊漢のためにあるので、一般大衆のためのものではない」からであるという。他の仏教宗派と比較した禅の顕著な特徴は、このエリート主義にあるといえよう。浄土宗はじめほかの宗派は、大衆の強化を目的としているのに対して、禅は一部のエリートをさとりに導くことに重点をおいているのである。

そのさとりのことであるが、大拙が禅のさとりと考えるものは、人間の内部に潜んでいる仏性をつかむことだとされる。仏性とはものごとの真理のことをいうが、その真理は、具体的には般若経に説かれる空の思想である。それを禅定・座禅を通じて体得するのが禅の目的である。このあたりを大拙は次のように言っている。「禅の目的とする所は、般若の実現であって、禅定そのものではない。禅は空の真理を把捉するものであって、これを為すに知性や論理の媒介によらない。それは直感又は直覚に訴える」

かようなわけであるから、禅の修行は、普通の学問とはちがって、言葉や論理を媒介としないのが基本である。では何によって目的を達せんとするか。直感というが、何を直感するのか。

臨済禅に親しんだ大拙は、公案の威力に信頼をおいている。公案を通じてさとりの境地とはなにかを体得できるというのである。しかしその体得したものを他人に説明することはできぬし、したがって言葉を通じてさとりの境地へと指導することもできぬ。さとりというものは、人間の外側から与えられるものではなく、人間の内部にもともとあるものに目覚めることで得られるものなのである。禅匠は弟子を、弟子個人の内部にあるものに目覚めさせるよう、そのきっかけを与えるに過ぎない。つまり禅の修行というのは、徹底的に自力の行いなのである。

公案を通じてさとりを体得するというが、個人がさとりと感じたものが実際にさとりなのかどうかについては、その個人以外に知るもののある由がない。あくまでもその個人の彼自身の実感なのである。しかし、その実感は、なんとなく他人と共有できるものだと大拙は考えていたようである。その共有の媒介となるのが公案だというわけであろう。

こんなふうに言われると、日本人でも途方にくれるものが多いのではないか。まして欧米人にとっては、何を言っているのかわからぬというものがほとんどではないか。言葉で説明できぬものは、頭では受け入れられない、というのが、西洋的な合理思想の基本である。だが、大拙にとっては、思想の合理性が問題なのではなく、人間の生き方の真理を自己の存在の全体をかけて体得することが問題なのであった。大拙にとって存在は言葉に先立つのである。その存在をありのままに体得すること、そこに大拙は禅の目的を見たわけであろう。

なお、付録として掲載されている文章は、大拙がかつて支持した北浜洪川及び釈宗演の思い出を語ったものである。






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