加藤周一の室町文化論:日本文学史序説

| コメント(0)
室町時代の日本文化を加藤周一は、禅の世俗化として捉えている。禅は鎌倉仏教の一つとして興隆したわけだが、室町時代になると、足利武家政権と結びついて、政治に深くかかわるとともに、権力に保護されながら世俗的な影響力を発揮することになった。同じ鎌倉仏教でも、浄土真宗が反権力的で、しかも一向一揆に代表されるような抵抗の精神を持っていたのにくらべると、大きな違いである。

禅の流派のなかでも権力との結びつきが強かったのは臨済宗である。加藤は特に断っていないが、彼が「禅」というとき、それは臨済禅をさしている。曹洞禅のほうは、権力との結びつきはほとんどなかった。その臨済宗の禅が室町時代の文化の担い手となった。それを加藤は、「室町時代の文化に禅宗が影響したのではなく、禅宗が室町時代の文化になったのである」と表現している。

世俗化した禅宗が室町文化となったわけだが、その室町文化を加藤は、五山を中心とした詩文の隆盛と水墨画の発達に見ている。両者とも禅寺の坊主たちが主な担い手だった。水墨画の最高峰といわれる雪舟が、どれほど禅の精神を体現していたか疑問だとしながら、しかしかれを含めた水墨画の巨匠たちは、なんらかの形で禅寺と結びついていた。その多くは、画業に従事した画僧と呼ばれた人々である。

禅寺の坊主たちが作った詩文の最大の特徴は、同性愛をテーマにしたことだと加藤はいう。禅寺は女人禁制をたてまえとしていたので、同性愛が流行ったといい、その同性愛を漢詩に詠ったというのである。たしかに、一休のような禅僧が異性愛をおおらかに詠ったことはある。しかし一休は禅寺の王道から落ちこぼれたものであり、異形の禅僧であるから、あくまでも例外である。一休が禅僧だったから同性愛にふけったのではなく、たまたま同性愛者だったにすぎないということだろう。室町時代には、禅寺の坊主をメンバーとした、いわば仲間内の芸術が流行る一方で、一休に代表されるような、仲間外れの芸術も発達したのである。加藤によれば、徒然草の作者吉田兼好も仲間外れの一人だった。

禅寺ではまた茶道が流行した。茶は栄西が大陸から持ち帰ったといわれ、禅寺を中心に喫茶の習慣が広まった。その習慣から、一種の遊びの空間が生まれ、そこから茶道が発展した。紹鷗とか利休といった俗人の茶道家も、大徳寺など禅寺との関係をもっていたという。この茶道の中から、日本独自の美意識が育ってくるのだ。

室町時代の文化は、禅寺の坊主たちが主な担い手だったが、その他に新たな文化的集団が生まれた。能と狂言を代表とする演劇的な文化の集団と、連歌の仲間集団である。どちらも専門家の集団であり、従来貴族や坊主が主な担い手であった時代から、そのほかの民衆に近いレベルに文化の担い手が拡散していく先駆けともいえた。それを加藤は「芸術家の独立」と呼んでいる。とりわけ連歌は、広範な大衆を巻き込みながら、連歌師の芸術家としての地位を高めた。その連歌の中から、やがて俳句の運動が生まれてくることになる。

能も狂言も大衆の中から出てきたものであるが、能は武家の保護を受けるようになって、大衆から遊離する傾向を見せたのに対して、狂言のほうはずっと大衆との接点を失わなかった。狂言は能とちがって即興の要素が強く、観客との一体感を重んじるところがあった。そこが大衆との接点を失わなかった原因だと加藤は考えている。その能と狂言との相違を加藤はかなり大げさに捉えている。能と狂言との対照は「言語・題材・演技の様式にとどまらず、実に世界観の対照でもあった」というくらいである。

能も狂言も猿楽から出てきたものであり、したがって本来兄弟関係にあるといってよい。それが世界観を含めた対立の関係にまで発展したというのは、うがちすぎた見方といえなくもない。

ともあれ、室町時代に、文化が広範な大衆を巻き込んで、全国的なスケールに発展したことは指摘できよう。加藤は、平安時代を日本文化の最大の分岐点と考えているので、室町時代の位置づけは決定的に重要とは思っていない。だが、大衆を巻き込んだかたちで全国的文化変容が起こり、それが言語や芸術などの面で、今日にいたる連続性を保っていることを考えると、室町時代こそが日本文化の最大の分岐点だったとする見方も成り立つと思われる。





コメントする

アーカイブ