ゴーゴリ「狂人日記」を読む

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ゴーゴリの中編小説「狂人日記」は、作品集「アラベスキ」に収載された。この作品集は1835年に、「ミルゴロド」と前後して刊行され、評論のほか中編小説数編を収めていた。それらのうち、「狂人日記」が書かれたのは1831年のことである。

タイトルにある通り、狂人の妄想をそのまま日記形式に綴ったものである。狂人が日記をつけるものかどうか、その詮索はわきにおいて、この小説は狂人みずからの独白というかたちをとっているので、それなりの迫力がある。話が荒唐無稽で支離滅裂なのは、狂人の妄想がそうだからだ。だから読者は、自分自身精神科の医師の身になって、この狂人の訴えに意味を傾けるということになる。

日記がどれくらいの時間をカバーしているのかはわからない。作者が次第に錯乱して、ついには時間の感覚を全く失ってしまうからだ。だが、その時間をある程度分節することはできる。比較的現実に近い感覚を持っている時間と、現実感を全く失った時間が両極にあって、現実から非現実への移行がわかるように示されているからである。その移行は突然起こる。つまり、ある時期にこの狂人は、周囲から狂人と認定され、精神病院に強制的に入れられてしまうのである。

この狂人は役所につとめる下級の役人ということになっている。九等官である。その待遇にこの狂人は不満を感じており、貴族である自分にはふさわしくないと思っている。かれがじっさいに貴族なのか、それとも妄想がそう思わせるのか、第三者の立場から断定することはできない。我々読者には、この狂人のいうことしか伝わってこないからである。

最初の頃には、狂人は自分の待遇を中心とした現実社会への幻滅をくどくどと述べたてている。その苦情には、かれなりの根拠があるようだが、読者にはどうでもよいことのようにうつる。彼には、自分自身へのこだわりがあるだけで、社会的な関心は、それが自分自身にかかわりがあるものをのぞいては、全くないからである。読者と小説を結び付ける絆は、共通の関心であり、その関心は社会的なものといえるから、その社会的な関心を全く含まないこの狂人の独白は、読者にとっては絵空事のようなものにすぎない。

そのうちこの狂人は、ある女性への恋情をとおして社会的な関心を示すようになる。その女性は狂人の上司である局長の娘なのだが、その娘に狂人は直接話しかける機会がなく、そのかわりに娘の飼っている犬を通じて、娘の様子を知ろうとする。その犬は、別の犬と文通をしており、その手紙を盗み読むことで、犬を通じて娘の様子を知ろうとするのである。だが、犬の手紙には犬の都合ばかりがかかれ、人間のことはほとんど出てこない。出てくるとしたら、それは狂人にたいする侮蔑的な言及だけだ。そんなわけで狂人には、娘のことを知る由もないのだ。

狂人は、貴族である自分にはもっとふさわしい待遇があってしかるべきだと常に思っている。もしかして自分はある国の王であり、その身分をかくして暮らしているかもしれないと思ったりするのだ。

狂人にとって転機となったのは、スペイン王位の継承問題のことであった。スペイン王が死んで、その継承者のことが大問題となったのだったが、新しい王に女性がつくという話を聞いた狂人は激しい拒絶反応を見せる。女が王になるなんてことはありえないと狂人は思うのだ。女が王になるくらいなら、男である自分がなったほうがはるかによい。そんな思いが高じた挙句、狂人は自分がスぺイン王だと確信するようになる。その確信は実現される。かれはマドリードに王として凱旋するのだ。そのマドリードというのが、どうも精神病院のことらしいのである。らしい、というのは、狂人にその自覚がないからで、かれが自覚しているのは、王である自分が不当な扱いをされているという不満だけなのである。

筋書きとしては以上のように単純なもので、読み物としての魅力は、狂人の心理を垣間見ることである。その心理は妄想によっていろどられている。というより妄想そのものである。その妄想に狂人がとらわれていることは、如実に伝わってくる。だが、その妄想がどのようなメカニズムに従って起こってくるのか、そこまでは判然としない。自分自身と他者との区別がつかなくなったり、犬の世界と人間の世界とを連続したものと思い込んだりするところは、分裂症(統合失調症)を思わせたりするが、そう単純には割り切れない。なぜなら、この狂人にはある程度の現実感覚もあるからだ。たとえそれが、被害妄想をともなったものであるとしても。

ゴーゴリは、狂人の心理を語ることで、何を訴えたかったのか。同時代のロシア人は多かれ少なかれこの狂人と同じような妄想を常に抱いていると言いたかったのか。たしかにロシア人には夢想的なところがあって、その夢想が妄想の形をとることもあるので、ロシア人は本質的に妄想好きの民族だといえないこともない。その妄想が高じて、異様な被害感情をもたらし、それがロシアを戦争にかりたてたという事実もある。世界がロシアを滅ぼそうとしているので、ロシアは自らの存在をかけて世界と戦うのだ、と近年のロシアの政治指導者は強調したものだ。

それはともかく、狂人の妄想を小説のテーマに選んだことは、ゴーゴリならではの手柄といえるだろう。20世紀になって流行する不条理文学の、これは先駆的な作品といってもよい。不条理文学は、不条理が世界の標準となることへの違和感を示したものだが、ゴーゴリの場合には、狂気と正気との境界があいまであることを示したといえるのではないか。






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