表現としての身体と言葉:メルロ=ポンティ「知覚の現象学」

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メルロ=ポンティは、言語について独特の見解をもっている。かれが「知覚の現象学」を書いた頃には、ソシュールの構造主義言語学が支配的な言語理論として受け止められていたのだったが、メルロ=ポンティはそれに異議を唱えてかれ独自の言語論を提示したのである。

ソシュールの言語学の特徴を簡単にいうと、言語は意味の体系だとする一方で、一つ一つの言葉と意味との結びつきは偶然のものとすることだ。人体のある部分をフランス語では「ネ」といい、日本語では「ハナ」という。その「ネ」という言葉も「ハナ」という言葉も、どちらも同じ人体の部分(鼻)を意味しているが、なぜそうなったかは、必然の理由があってのことではない。たまたまそういう言葉で呼ばれ、それを同じ言語を話す人々が受け入れることで、成り立っているとするわけだ。

ところがメルロ=ポンティは、言葉と意味の結びつきに、ある必然性のようなものを認める。ソシュールの言語学では、言葉はそれに対応する事物の標識ということになり、したがって言葉と意味の結びつきは外面的で偶然のものだということになる。メルロ=ポンティはそうした考え方に異議を唱え、言葉は事物の標識などではなく、それ自体が自立した働きを担っていると考えるのである。

それを証明するためにメルロ=ポンティは、文章を書くという行為を例にあげる。ソシュールの理論によれば、言葉は事物の標識であり、文章は思惟の標識ということになるから、人は文章を書く前に、その文章に対応した思惟内容を多かれ少なかれ明確に意識していなければならない。思惟を形に現わしたもの、それが文章だということになる。しかし実際はそうではないとメルロ=ポンティはいう。ある作家は、思惟した内容をそのまま文章にするというより、文章を書きながら思惟している。言葉を文章として定式化する過程を通じて、思惟の内容がはっきりしてくる。これは、どんなに馴染みの深い対象でも、その名前が思い出せないうちは落ち着きの悪いものに思えるという体験に類似したものである。

このことをメルロ=ポンティは、「表現を通じてこそ、思惟はわれわれの思惟となるのである。事物の命名は、認識のあとになってもたらされるのではなく、それはまさに認識そのものである」(竹内、小木訳)と言っている。認識のあとに言葉がくるのではなく、言葉が認識を促進するのだ。言葉がなければ、いかなる認識もありえない。言葉は、「事物の中に住み込み、意味を運搬するものでなければならない。したがって言葉は、言葉を語るものにとって、すでに出来上がっている思想を翻訳するものではなく、それを完成するものだ」。以上からメルロ=ポンティは、言葉は「思惟の着物ではなく、思惟の徴表または思惟の身体とならねばならない」と言っている。

そこで言葉と身体との関連が問題になってくる。言葉は思惟を表現するものであるが、身体もまた表現する機能をもっている、というより身体の本質は表現することにあるのだ。その表現のことをメルロ=ポンティは「所作」と言い換えている。所作には身体的なものも、言語的なものもある。身体的な所作は、ある種の情動を伴っていることが多い。たとえば怒りとか驚きとかいったものだ。常識的な考えでは、怒りの所作は、怒りという心的な事実を外的に表現したものだということになるが、メルロ=ポンティは、そうは考えない。「私は怒りとか脅しとかを、所作の背後に隠れている一つの心的事実として知覚するのではなく、私は怒りを所作そのものの中に読み取るのだし、所作は私に怒りのことを考えさせるのではなくて、怒りそのものなのだ」。メルロ=ポンティのこういう考えには、内的な心的事実と外的な所作との間には、ある統一があるのであって、両者は外在的な関係には解消されないとする見方が働いている。

その所作について、メルロ=ポンティは、その社会的な起源について語っている。所作には一定のスタイルがあって、それは社会的に規定されている。たとえば、「怒りの仕草なり愛の仕草なりは、日本人と西洋人とでは、(身体の解剖学的組織は同じでも)同じではない・・・仕草の違いは情動そのものの違いと相重なっているのだ」。仕草(所作)と情動とは一体となってあるスタイルを作り上げるのだが、それは文化の相違に応じて相違しているのである。

このことを踏まえて、言葉とか身体を通じて表現されるものは、すべて文化的な背景をもったものであり、そういう点でそれは制度と呼ぶことができるとメルロ=ポンティはいう。「父子関係の情のような、人体の中にすでに刻みこまれてしまっているようにみえる感情でさえも、本当は制度なのだ。人間にあっては、<自然的>と呼ばれる行動の第一の層と、加工された文化的ないしは精神的な世界とを重ね合わせることは不可能である。あるいはこう言った方がよければ、人間にあっては、すべてが加工されたものであり、かつ、すべてが自然的なもので」ある。

ともあれメルロ=ポンティは、「私が人体を認識する唯一の手段は、みずからそれを生きること」でありと言い、また、「私とは私の身体である」と言っている。
こういうメルロ=ポンティの考えは、人間は自らを絶え間なく作り直していく存在だとする思想と、どこでつながることになるのか。





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