浄土とは何か:鈴木大拙「浄土系思想論」

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鈴木大拙は「浄土系思想論」において、人はなぜ浄土を求めるかについて説明したあと、その浄土がいかなるものかについての説明に移る。「浄土観・名号・禅」と題する一文がそれにあてられている。「浄土観」というのは、浄土とはいかなるものかについての理解をあらわす言葉である。

ここでいう浄土観とは大拙独自の浄土認識である。というのも、浄土系の諸派の間では、浄土がいなかるものかについての共通の認識がない。法然の浄土宗と親鸞の真宗とでは浄土の捉え方が全く異なっているし、真宗の内部でも、明確な浄土観が確立されているわけでもないらしい。そんな状況だから、大拙が浄土観を披露するときには、勢いかれの個人的な理解を示すということになるようである。

法然の浄土宗は、極楽浄土を死後にいくべき世界と考えていた。現世と来世、此土と彼土との間には時間的・空間的断絶があるとされる。これに対して親鸞は、此土と彼土とは、完全に断絶したものではないと考える。極楽は死んだ後に行くものではなく、生きながらにして行くことができるし、しかも行きっぱなしになるのではなく、極楽から娑婆に戻ることができる。つまり、娑婆と極楽との間の移行は一方向的なものではなく、往還的なものだと考えている。

この辺の事情を大拙は次のように説明している。「仏教の浄土は此土を辞してから往く処ではないのである。従って、空間的に西方十万億土を隔てた向うに在る国土ではないのである。浄土は此土と対立して、しかも此土に映っているものなのである。両者の論理的関係は、相互に否定して、而して相即するのである。ただの相即ではなくて、否定を媒介とする相即である。これをまさに表裏という文字で現わさんとしたのである」

表裏の具体的な内容については、次のように延べられている。「表裏というは、彼は彼、此は此でありながら、彼此相離れることができぬというのである・・・浄土と穢土とは相互矛盾で、それが即ち自己同一の存在であるということでなくてはならぬのである」

このように相互に矛盾・対立しながらしかも相離れることのできないものを、大拙は、「相互矛盾的自己同一」と呼んでいる。晩年の西田幾多郎も使っていた言葉だ。西田はともかく大拙は、この相互矛盾的自己同一を無量寿経によって基礎づけている。無量寿経は弥陀の本願を説いた経だが、その中に、他力の思想が説かれている。それは、衆生からの念仏はそのまま弥陀の本願に対応するというものだった。つまり、衆生からの信心は、弥陀の側の大非心と呼応しあうということになっている。衆生の信心は一方的なものではなく、弥陀との間の往還作用に支えられているのである。

その往還作用に支えられながら、衆生は穢土と浄土との間を行き来する。信心は一方向的なものではなく、往還的なものなのである。浄土にいったあとに、かならず穢土に戻ってくる。それは弥陀の本願の働きによるものである。その往還というか、穢土から浄土への移行を、大拙は横超と言っている。横超とは、言葉通り、横に超越することである。横というと空間的なイメージが湧くが、穢土と浄土との関係は空間的なものではない。しかし言葉にだしていうときには、いきおい空間的なイメージによらねばならない。そこで浄土を、キリスト教のように天上高いところに設定するのではなく、穢土と隣り合わせのところにあるというふうに設定する。その隣に向かって超越するのであるから、横超というわけである。横超について大拙は「非連続の連続」という意味深い言葉で説明している。

その横超を基礎づける弥陀の本願は、真宗の核心的な思想であるが、その詳細については別稿で改めて取り上げたいと思う。

この小論ではもう一つ、真宗と禅との関係についても延べられている。これについては、タイトルに禅という言葉があるくらいなのだが、その禅と真宗との関係については、大拙はあまり説得力のある説明は行っていない。真宗の名号に相当するものが禅の公案だというくらいである。だが両者の関係の密接さは強く感じているようで、次のように言ってもいる。「浄土教と禅とがその根底において気脈の相通ずるものある所以を、予は主張せんとするのである。皮相的に見れば、自力と他力、聖道門と浄土門、難行道と易行道、直指人心と浄土往生、見性と聞信、公案と名号など、甚だ数多い相違あるにかかわらず、これらの底の底に撤して、浄土教と禅とを作りあげている論理的構造を見ると、そこに何やらお互いに了解し得べき消息があるやに考えられるのである」。






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