ゴーゴリ「鼻」を読む

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ゴーゴリの短編小説「鼻」は、ある種の変身物語である。変身の話はヨーロッパではそれなりの伝統があるようで、それを踏まえたうえで、カフカも「変身」を書いた。カフカの小説の主人公は、人間がごきぶりに変身するのであるが、これはやはり、人間のナルシスが水仙に変身したというオヴィディウスの話にヒントを得たものであろう。ゴーゴリが「鼻」を書いたのはカフカより百年も前のことで、カフカのように強烈な不条理意識はないともいえるが、しかし鼻のない人間というのは、やはり不条理な事態といえなくもない。しかも、その失われた鼻がまるで自立した人間のようにふるまうのだ。だからこの小説を不条理文学の先駆けとして読むこともできるであろう。

カフカの小説の主人公は、ある朝目覚めたら自分が巨大なごきぶりに変身していることを見出したのだった。その後そのごきぶりは、人間に戻ることなく死んでしまう。当初はかれのそうした境遇に同情していた家族は、さんざん手を焼かせたこの怪物が死んだとき、重荷から解放された気分になるのだ。ゴーゴリの小説では、主人公がある朝目覚めたら、自分の鼻がなくなっていることに気づく。そこで主人公は鼻の行方を追うのだが、なんとあろう、その鼻は人間に化けてペテルブルクの町を徘徊しているのである。しかし、最後にはその鼻は、いなくなったときの姿に戻って、主人公の顔(つまり本来あるべきところ)に収まることになる。鼻が戻ったことで、主人公はやっと人間的な気分にもどることができた、というような内容である。

鼻にいなくなられた人間を描くことで、ゴーゴリはなにを言いたかったのか。鼻は人体の一部であるから、それが欠損することはめずらしいことではない。身体の一部の欠損という点では、手や足の欠損と基本的に異なったものではない。かといって日常的な事態ともいえない。鼻は顔面の重要な構成要素であるから、それが欠けると非常な喪失を感じさせる。この小説の主人公は、鼻のない自分の顔を鏡で見ると、まるで自分が自分でなくなったとでもいうように、決定的な喪失感に襲われる。その喪失感は、自分の存在の否定につながるような強烈なものだ。だから自分の存在意義を感じ続けようとすれば、鼻の復帰を願わざるをえない。この小説はだから、人間の存在意義とは何かということを考えさせるものともなっている。

この小説は、鼻を失ったことについての主人公の嘆きと、その復帰を願ってかれが行う喜劇的な行いを描くことで成り立っている。鼻を失ったことについての嘆きは、人間としての存在についての不安である。人間はただ生きて動き回っているだけでは人間的とはいえない。人間的であるためには、人間としてふさわしい外観を維持できていなければならない。鼻のない生き方は、決して人間的な生き方ではない、そう主人公は考えているのである。だからその鼻がもとの位置に収まったとき、主人公は自分が再び人間としてふるまえる資格を得たと感じて、喜ぶのである。その喜びは、自分の顔を他人に見てもらいたいという欲望とつながる。かれはもとのようになった自分の顔を他人に見てもらうことで、自分の人間としての自信を取り戻したいと思うのだ。

カフカの主人公は、ゴキブリに変身した自分を見て、当初は激しくうろたえ、事実を受け入れられないでいるが、そのうちその事実に屈服し、ゴキブリとしてふるまったあげくに、妹から投げつけられた林檎が身体を傷つけ、その傷がもとで死んでしまう。つまり救いのないままに死んでいくわけで、その救いのなさが不条理の感じを読者に与えるのである。自分が本来あるべき姿を失うというのは、人間にとっては、自分の存在の否定を意味するものらしい。じっさいカフカの主人公は、ゴキブリに変身することで、人間ではなくなってしまうわけだ。人間が人間でなくなるのであるから、それは不条理極まる事態である。それに対してゴーゴリの主人公は、全面的に人間でなくなるわけではなく、鼻のない人間となる。鼻のない人間であることは、その人間にとっては耐えがたい事態であるが、そのことによって、人間でなくなるわけではない。だからゴーゴリの主人公は、カフカの主人公に比べれば、まだましな境遇にいるわけである。それをましだとは思えず、存在を否定されるような深刻さとして受け止めるのは、鼻がなくなることによって、社会とのつながりをなくすと思うからであろう。そう言えるとすれば、この小説は、人間の社会的なアイデンティティをテーマにした作品といえるかもしれない。

人間からゴキブリへの変身は、生物的に人間ではなくなることであるから、文字通り変身である。しかし、人間からゴキブリに変身したあとでも、主人公は人間としての意識を持ち続ける。だから悩むのだ。いっそ意識のうえでもゴキブリになってしまえば(ゴキブリに意識があるとしての話だが)、人間として悩むことはなくなり、ゴキブリとして生きればいいということになり、その点では気楽になれる。ゴーゴリの主人公は、鼻がなくなっただけで、それ以外は人間としての外観を保ち続けているし、意識も人間のものである。だが、この主人公は、鼻のない事態を、人間でなくなったかのように深刻な事態として受け止める。その受け止め方は、単に身体的な喪失感にとどまらず、人間性の否定を意味するような深刻なものである。なぜそうなるのか。それは人間というものが、顔によって代表されるとみなされているからであろう。鼻は顔のアイデンティティにとって決定的な意義を有しているから、それが欠損することは、顔の否定を意味し、顔の否定が人間性そのものの否定につながると考えられる。

そのように考えると、ゴーゴリのこの小説は、ある種の変身物語に託して、人間の人間としてのアイデンティティの問題について一石を投じたものと捉えることができるのではないか。






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