メルロ=ポンティの共感覚論:「知覚の現象学」を読む

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共感覚(共通感覚)を哲学上の問題として取り上げたのはアリストテレスだ。アリストテレスは、世上に五感と称されるような個別の感覚を超えて、それらを統合するような感覚があると主張し、それを共感覚(共通感覚)と名付けた。共感覚は、ある対象についての原初的な感覚であって、そこでは視覚的、聴覚的、触覚的等々の要素が区分されずに混沌とした全体の印象として受け取られる。その共感覚を基礎として、それを分節することで、個別の感覚、たとえば視覚とか聴覚とか触覚が現れると考えた。アリストテレスはまた、共感覚を第六感のようなものとして位置づけ、その第六感が常識の基礎となるともいった。思想史のその後の流れの中では、常識の基礎としての第六感のほうがより強い注目をあつめ、本来の感覚としての共感覚は軽視されるようになった。それを感覚本来の問題として取り上げなおしたのはメルロ=ポンティである。

メルロ=ポンティは、視覚や聴覚といった個別の感覚が、それぞれそれに対応する対象とストレートに結びついているわけではなく、したがって視覚がそれに対応する形のイメージと直接結びつき、聴覚がそれに対応する音と直接結びついているというわけではなく、統合された全体的な感覚としてまづ受容され、それが知的に分節されることで個々の感覚としてと捉えなおされると考えた。それはアリストテレスの考え方と非常に似ている。だがアリストテレスには、個々の感覚をより重視するようなところがあり、共感覚は個別の五感それぞれを統合したものとする考えが強かった。メルロ=ポンティは、共感覚のほうをより重視し、個別の感覚を統合することで共感覚が生じると考えるのではなく、原初的な共感覚が分節して個別の感覚が生ずるというふうに考える。その原初的な共感覚をメルロ=ポンティは、感覚の「原初的な層」と呼んでいる。

この「原初的な層」は、五感のすべてを含みこんだものである。私は或る対象について、それを五感それぞれに応じて個別に感じるのではなく、五感が一体化したものとして感じる。対象は形や音や肌触りや匂いや味が混沌として一体化したものとしてまず現れる。それが個々の感覚に分節されるのは、そこに知的な働きが介在するからである。われわれは、甘い色と言ったり、ごつごつした音と言ったりすることがあるが、それは感覚の原初的な層が、すべての感覚を含んでいるからである。甘い色ということをアリストテレスは、感覚の相互作用といったが、その相互作用が成り立つのは、感覚の「原初的な層」が、すべての感覚を含んでいるからなのである。

感覚がまず共感覚として現れるのは、私が身体として世界とかかわっているからである。身体としての私が世界とかかわるときに、感覚がその接触面としての働きをする。わたしはその感覚を手掛かりにして世界とかかわりあうのだ。その場合、感覚は個々の感覚として分節されてはおらず、五感が混然一体となったものとして現れる。それはここで共感覚と呼んでいるものであり、その共感覚を分節することで個々の感覚が生じるのだ。分節は知的な働きである。原初的な、つまり自然的な感覚は、知的に分節される以前の混沌とした全体として現れるのである。

われわれは、対象を、個々の感覚のそれぞれ独自の対象として(一対一の関係として)捉えるのではなく、すべての感覚を総動員して捉える。だからある同じ対象が、白くもあり、甘くもあり、ざらざらとしてもあり、静かさを感じさせたりもするのである。これは、対象を複数の感官で捉えるというふうにいうことができるが、複数の感官で対象を捉えるということでは、われわれの目の構造に関してもいえることである。われわれ人間は、複眼の生き物であるから、二つの目で対象を見るのであるが、その場合に左右の眼はそれぞれ違ったイメージを結んでいるはずである。ところが実際の経験では、対象は単一の像として現れる。要するに単眼で見たような体裁を呈するのである。これについてメルロ=ポンティは、われわれの目には志向性というものがあって、その志向性が、二つの目を協力させて一つの像を結ぶのだといっている。これはやや苦しい言い方のように聞こえる。ともあれ、われわれは、それぞれの感官を独立して作用させているわけではなく、すべての感覚を総動員して対象を把握するようにできている。そしてその理由は、われわれ人間が世界とかかわりあうことにおいて、身体を総動員して対象を把握するように仕向けられているということにある。

共感覚についての自身の見解をメルロ=ポンティは、ヘルダーの言葉によって説明している。ヘルダーは、「人間とは永続的な共通感官である」といった。その意味は、メルロ=ポンティによれば、人間とは身体としての存在であり、「身体は表現の現象の場、あるいはむしろ現実そのものであって、そこにあっては、たとえば視覚経験と聴覚経験は互いに他方を孕んでいるのであり、またそれらの表現的価値は知覚される世界の前述定的統一を基礎づけ、また、それをとおして、言語表現と知的意味とを基礎づける。私の身体はあらゆる対象に共通な織地であり、またそれは、すくなくとも知覚される世界に関して、私の<了解>の一般的な手段なのである」(竹内、小木訳)。

ところでメルロ=ポンティは、共感覚を論じる場面で、人間の自分自身についての存在の感覚について触れている。かれは、人間は自分の出生や死について、直接感覚することはない、あるいはそれらを意識することはないという。「私の出生も私の死も自分の経験として私の意識に現れるはずはない。なぜなら、かりにそういうふうに考えるとすれば、私は私がそれらを体験しうるために、私自身よりも前に生存しまたはあとまで生き延びるものと仮定していることになろうし、したがって私は私の出生なり死なりを本気で考えてはいないことになろうからである。私はしたがって、私を<すでに生まれている>とか<まだ生きている>としてしか捉えられない」。

これはこれで興味ある考えといえるだろうが、なぜ自分自身の出生や死にかかわることがらを、感覚を論じる場面で挿入させたか、そこはちょっとわからないところだ。






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