浄土とは何かその二:鈴木大拙「浄土系思想論」

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浄土とは何かについて、大拙はまず「無量寿経」によりながら、その概要について示したのであるが、更に曇鸞の「浄土論註」によりながら詳細に説明する。「浄土系思想論」の第三の小論「浄土観続稿」がそれである。

浄土とは何かについて、ここで大拙は次のように言う。「これがなければ浄土がないというものは何かと云うに、それは『清浄の功徳』ということである・・・清浄をまた『畢竟浄』とも云う。畢竟浄とは、絶対の義に外ならぬ。絶対性の清浄というのは、此土の相対的論理の尺度では測量せられぬとの義である」

絶対性の清浄と呼ばれるものは、具体的なイメージとしては、明暗のない光に譬えられる。此土の光は、明暗を伴う。光に照らされて明るいものはかならず暗い影をともなう。影のない物体はない。ところが彼土の光は遍く照らし渡って、一切の影を生じない。すべてが光に照らされて明るい。これを平等と言い換えることができる。此土の世界は不平等からなっているが、彼土ではすべてが平等である。平等性とともに、調諧性・完璧性・明朗性・自由性・創造性・常住性など云うべき諸性格も亦自ずから備わっている。

あるいは、「畢竟浄の国土には二分性がない、無分別である」とも言われる。不平等は二分性から生まれるから、その二分的な区別がなくなれば、平等がもたらされる。それは分別のないことから可能になるのであるから、無分別というわけである。

かように、此土と彼土とは対立関係において考えられているが、しかし対立することで、相互に無関係になるわけではない。「浄土(彼土)は此土を離れては考えられず、此土も浄土を離れては考えられぬ」のである。両者は対立関係にありながら、しかも相即不離のものである。互いに互いを前提としている。

以上が、浄土とは何かについての説明である。大拙はそれを踏まえて、その浄土の「発生学的了解」と「存在論的了解」について触れている。発生学的了解というのは、浄土の建設者がどんな意図をもって浄土を建設したかということについての了解であり、存在論的了解とは、浄土の本質ともいうべきものである。浄土の本質は、人間にとってもつ意味と切り離せないから、人間にとって浄土とは何か、というふうに言い換えることができる。

まず、浄土の発生学的了解については、それが阿弥陀の本願によるものだと了解することである、とされる。阿弥陀が大悲心を起して衆生の救済を本願したその瞬間に浄土は生まれる。というか、阿弥陀の本願そのものが浄土なのである。衆生はその阿弥陀の本願によって救済されるのであるから、ただひたすら阿弥陀に帰依すればよい。さすれば阿弥陀がそのものを往生させてくれる。

その阿弥陀への帰依を基礎づけるのが浄土の存在論的了解である。阿弥陀がその本願によって衆生を救済してくださる、そのように信じることを正覚という。正覚はまた「無上正等正覚」とも「阿耨多羅三藐三菩提」ともいう。本願が大悲の働きとすれば、正覚は大智の働きである。大悲大智があいまって浄土がある。

ちなみに、「阿耨多羅三藐三菩提」について、大拙は次のように解説している。「阿は無、耨多羅は上、三藐は正、三は遍、菩提は道という意味であるから、 阿耨多羅三藐三菩提は無上正遍道ということである」

浄土は娑婆と対立すると同時に、相互に前提しあう。その相依関係を大拙は「生死則涅槃」という言葉で表している。生死は此土のことである。涅槃は浄土のことである。だから「生死則涅槃」とは「此土則彼土」、「娑婆則浄土」という意味になる。このように、本来対立しあうものが、正覚の中で相即するようになることの理屈を、大拙は「即非の論理」と呼んでいる。即非の論理とは般若の思想であり、とりわけ禅宗において重んじられるが、般若はもともと大乗共通の考えをあらわしたものであり、浄土系の思想にも当然あてはまる、と大拙は考えた。

以上のことは、理屈で納得できるものではない。理屈は分別にもとづくものだから、日常の分別が通じない浄土のことは全く説明できない。浄土にかかわることを、言葉であらわそうとすれば勢い分別を用いることになるが、その分別は単純な分別ではなく、無分別の分別でなけらばならない、と大拙は言うのである。「浄土と此土とは『思議』(分別)で繋がるのでない。思議の上では絶対に無縁である」と重ねて強調するくらいである。

大拙はまた、次のようにも言っている。「畢竟ずるに浄土は、仏智の不可思議・不可称・不可量の展開であるので、これを了解し、これに往生するには、どうしても分別界を超脱しなければならぬのである」。では、往生のために大智に達するにはどうすればよいのか、それは浄土を直接に体験することだと大拙は言う。宗教的な体験は理屈とは無縁なのであって、それを認識するためにはまず体験することが先決である。死を理解したければまず死んでみろ、とは禅者のよく言うところであるが、大拙もまた、同じようなことを言っているわけである。






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