ゴーゴリ「検察官」を読む

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「検察官」はゴーゴリの代表的な戯曲であり、世界文学史の上で独特の存在感を誇る作品だ。この戯曲は発表早々すさまじい反響を呼び、そのためゴーゴリはロシアにいられなくなり、長きにわたる外国生活を余儀なくされたのであった。とはいえ、官憲による弾圧を嫌ったわけではない。この戯曲は、少数の友人の前で朗読されたあと、一般公開に先立ってニコライ皇帝の前で演じられた。するとニコライ皇帝は腹をかかえて笑ったというし、プーシキンも太鼓判を押してくれた。この戯曲が書かれるにあたっては、プーシキンも一役かったいたのであるが、その出来栄えはプーシキンの予想を超えるものであったのである。

というわけで、いわば祝福を浴びながら生まれたといえる戯曲なのであるが、それに対する反響はすさまじいものであった。地方を舞台としているとはいえ、腐敗した役人たちを笑いものにしたこの戯曲に対して、保守派からは中傷だとか茶番劇だとかいった非難があびせられ、進歩派からは賞賛の言葉が沸き起こった。非難にしても賞賛にしても、ゴーゴリにとっては、わずらわしいことに相違はなかった。ロシアにいてはつねにそのわずらわしさに付きまとわれると観念したかれは、ついにロシアからの脱出を決意したのである。以後外国での生活は十年以上にのぼった。

テーマは、地方における役人たちの腐敗ぶりをあばきながら、かれらのそうした破廉恥な生き方を笑いのめすことである。じつはゴーゴリには、首都ペテルブルグの貴族社会を笑いものにした作品の構想があった。「ヴラヂーミル三等勲章」と題したその戯曲は、首都の貴族社会における権力政治の悪を暴露し、その摘発を意図したものであったが、当時のロシアでは、首都の貴族社会を正面から批判することが厳しく禁じられており、したがって検閲にパスする可能性はほとんどなかった。そこでゴーゴリは筆を折ったのだが、別のかたちでロシアの権力の腐敗を描くことはできないかと思案し、その思案の産物としてこの戯曲を思いついたのだった。これは舞台を地方都市にかえ、登場人物もけちな役人ばかりとあって、首都の貴族社会を直接イメージさせるものではなかったので、ニコライ皇帝以下のお偉方も大目に見てくれたのであろう。

この戯曲の成功の原因は、どたばた喜劇風に仕上げたことにある。とにかく人を抱腹絶倒させずにはいられないほど面白いのである。人はこの喜劇を見て、条件反射的に笑いころげることで、笑いそのものがかれの反応のすべてとなって、自分がなぜ笑っているかわからなくなる。つまり判断停止してしまうのであって、したがって戯曲の中に込められた隠された意図というべきものを反省する余裕を失うのである。中には、それについて反省的意識をもち、それにもとづいてこの戯曲を攻撃したものもあったが、なにしろニコライ皇帝をも笑わせたとあって、ある種のお墨付きをえて、一般公衆の前に示すことができたのであった。

テーマは人違いの喜劇である。ある地方都市の権力者たちのもとに、首都から検察官がやってきて、かれらの仕事ぶりを監査するいう情報がはいる。みな脛に傷を持っている彼らは、自分たちの仕事ぶりが検察官によって非難されることを恐れる。なにしろ彼らは、賄賂をとることは当然として、日頃庶民を虐待したり自分勝手なことをやっているのである。そこでなんとか検察官の目をごまかそうと、かれらなりに知恵をしぼる。そんな折に、ある青年が従者をともなって町に現れる。その青年は、ばくち好きののらくらもので、また口達者な男なのであるが、その青年を町の権力者たちは検察官だと思い込み、かれを相手に至れり尽くせりの接待をする。青年はまもなく、人違いだということに気づき、ばれない先に町を逃げ出すのだが、逃げる前に、権力者から大金を巻き上げたり、市長の娘と仲良くすることを忘れない。一方、町の権力者たちは、青年が友人に出した手紙を読むことで、自分たちが騙されていたことに気づく。郵便局長が彼の出した手紙を勝手に開封したのであった。真実を知って呆然とする権力者に、新たな情報がもたらされる。今度こそ本物の検察官が、ペテルブルグから派遣されてくるというのである。

こんなわけでこの喜劇は、権力者たちの腐敗ぶりと、かれらによってひどい目にあわされている民衆の嘆きに焦点を当てている。だからこの戯曲の主人公は、市長に代表される町の権力者であって、かれらを弄ぶ青年フレスタコーフは、脇役に徹している。かれは劇の盛り立て役のトリックスターといってよい。そのトリックスターと権力者たちのやりとりが、非常にリアルに描かれる。リアルだということは、人を笑わせる力を持っている場合が多いのである。べリンスキーはこの戯曲を評して「写実主義の手本」といったそうだが、なるほど当時のロシアにおける権力者の腐敗ぶりが、手に通るようにみえてくる作品である。






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