メルロ=ポンティの空間論:「知覚の現象学」を読む

| コメント(0)
空間についてのメルロ=ポンティの考察は、「知覚の現象学」の根本的な問題意識をもっとも尖鋭的に感じさせるものである。その問題意識とは、知覚についての経験論的な考えと主知主義との二項対立を克服して、その両者を包み込むような第三の視点を求めようとするものだった。その二項対立は、空間にあっては、客観的な空間と主観的な空間の対立として現れる。客観的な空間とは、私の意識とは別に、対象的な世界そのものがそれ自体空間の性質を内在していると捉えられたものであり、一方主観的な空間とは、カントに典型的なように、主観によって構成されたものである。客観的空間は事物そのものの性質であり、主観的空間は意識によって構成されたものである。その点では、アプリオリな形式といってよい。

空間をめぐるこのような二項対立について、メルロ=ポンティは次のようにいう。「われわれは、空間の中で事物を知覚するか、それとも(われわれが反省する場合、そしてわれわれ自身の体験が何を意味するか知ろうとする場合)空間というものを構成的精神が遂行する結合作用の不可分の系として考えるか、この二者択一に直面しているというのは本当であろうか」。この疑問に対してメルロ=ポンティは、そうした二項択一は偽の対立だという。主観と客観いづれか一方ではなく、その両者の深い結びつきが空間の感覚の基盤となるというのである。

空間というのは、厳密には空間的基準というのは、「私の身体による世界の所有の一様式であり、私の身体が世界を捉える一つの方式なのである」とメルロ=ポンティはいうのだが、そういわれると、空間とは私の身体によってのみ基礎づけられるというふうに受け取られがちである。カントは空間を私の意識にアプリオリにそなわった知覚の枠組みと考え、その限りで空間をもっぱら意識によって基礎づけたわけだが、メルロ=ポンティは、私の意識を身体によって基礎づけることで、空間を身体にとってのアプリオリと考えているように受け取れるのである。だがメルロ=ポンティ自身は、空間は主体と客体との有機的な結びつきから生まれてくるものだと強調する。空間はあくまでも、身体としての主体が、対象的な世界としての客体と出会うところから生まれるというふうに考えるのである。

空間のもつこうした性格をメルロ=ポンティは様々な事例をあげて解明するのだが、ここでは、奥行きと運動についてのかれの議論を紹介する。まず奥行きであるが、奥行きそのものは、眼には見えない、とメルロ=ポンティは確認する。その論拠としてバークリーの視覚説を援用しているが、それはわれわれが奥行きとして受け取るものは、実は横からみた幅のことなのであり、その幅を奥行きと見るのは知性の働きによってである。いずれにしても肝心なことは、奥行きそのものの知覚は、我々の身体と対象との相互関係に作用されるのだとメルロ=ポンティはいい、それを一つの根拠として、空間が主体と客体との有機的な関係に基礎づけられていると主張するである。

次に運動について。これについては、ゼノンの逆説に言及したり、いろいろ逸脱した議論をしながら、運動とは、対象と身体との間における相互関係に左右されると結論し、それを根拠に空間が主体と客体との共同作用から成立するという主張をしている。その事例としてメルロ=ポンティはいくつか挙げているが、その一つ、二台の動いている列車の関係についていえば、私がある列車に乗っていて、その列車の中の視点から他の列車を見ると、その他の列車が動いているように見える一方、私が自分の視線を別の列車に固定すれば、自分が乗っている列車が動いているように見える。これは運動が、とりあえずは私の身体の状況によって異なって見えるということを意味するが、もっと一般化して言うと、運動とは主体と客体との相互関係を反映しているということになる。

メルロ=ポンティはほかにも、上と下とか、遠いとか近いとか、大きいとか小さいとか、いろいろな事例を挙げているが、いずれも空間を主体と客体との相互関係にうちに基礎づける議論である。

空間がそのような性格を呈するのは、われわれの知覚の本質にもとづいている。我々の知覚は、地の上に図を認めるという形をとるわけだが、その地にあたるものが空間なのである。その空間のうちから特定の対象にまなざしを向けることで、われわれは特定の何かを知覚する。その地としての空間は、一様に単純化されたものではなく、いくつもの層からなっている。奥行きのようなケースでは、地はかなり拡がりをもった空間であり、二台の動く列車の場合にあっては、どちらか一方の列車が地としての役割を果たす。空間がそのように分化するのは、それが基本的に身体の相関物だからである。空間というのは、主体(身体としての人間)と客体(世界)との差し向かいを前提としているのである。だから空間はつねに、主体にとって特権的な意義を持つ。われわれは、自分の身体を基準にして世界と差し向かうのであるから、我々の身体こそが、世界の中心としてあらわれる。世界は私の身体を中心として広がっているのである。そのあたりは、(意識としての)主体の特権性にこだわるサルトルの考えからそう遠くはない。





コメントする

アーカイブ