他力の信心について:鈴木大拙「浄土系思想論」

| コメント(0)
真宗を含めた浄土宗の本質的な特徴は他力の信心ということにある。他力の信心の具体的な内容は阿弥陀如来への信仰というかたちをとり、その阿弥陀如来には一神教的な人格神の要素が強くあるから、他力の信心は人格神崇拝というべきところを持っている。他の大乗仏教各派は、やはり釈迦という人格を信仰するのであるが、人格としての釈迦自身よりも、釈迦が体現している真理への信仰という形をとっている。その真理は法身と呼ばれるので、ある意味抽象的なものへの信仰である。それに対して浄土宗は、人格としての阿弥陀を信仰し、しかもその信仰には自力の要素は一切ない。他の大乗仏教には、日蓮宗も含めて、修行などの自力の要素が残っているのに対して、浄土宗は徹底して他力の信心を追及しているのである。

鈴木大拙は「浄土系思想論」の中で、親鸞の「教行信証」によりながら、他力の信心について立ち入った言及をしている。「他力の信心につきて」と題した小文である。この小文の中で大拙は、他力というのは阿弥陀の計らいであって、衆生はただただその計らいにあずかるのみであり、自分から積極的になすべきものはない、と強調している。つまり信仰には自力の入る余地はないというのである。「歎異抄」の中に、「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」という有名な言葉があるが、これは、自力の余裕を持っている善人でさえ往生することができるのであるから、自力ではなにも出来ない悪人はひたすら他力に頼らざるを得ず、したがって阿弥陀の回向によって救われることができるという意味なのである。

他力の信心は次のように表現することができる。衆生が往生できるのは阿弥陀の本願による。「無量寿経」には、阿弥陀の四十八願が羅列されているが、そのうちの第十八願に次のようにある。「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ」。これは「念仏往生の願」と呼ばれ、一人でも念仏往生できぬものがいる間は、正覚をとることはしないとの決意を述べたものである。つまり、衆生のすべてが救済されるべく阿弥陀が本願をかけているというのである。であるから衆生は、ひたすら阿弥陀の声明を唱えるだけでよい。そうすれば、、阿弥陀の救いの網に拾われて、往生することができる。

このように、阿弥陀に対して無条件に帰依するというのが、他力信心の本質的な意味なのである。この場合、その念仏も、衆生が主体的に唱えるというより、阿弥陀の計らいによって唱えさせられるという意味合いが大きい。つまり衆生は、念仏を含めてすべて、阿弥陀の計らいによって生きているということになる。その阿弥陀のはからいを回向という。回向というと、ふつう衆生から仏に対して行われるものとイメージされるが、親鸞の考えでは、阿弥陀が衆生を救うためになす計らいを回向というべきなのである。

ところで、阿弥陀の救いによって得られる涅槃とか浄土というものが、この娑婆と離れたものでない、とするのが親鸞の基本的な考えである。同じ浄土宗でも、法然とそれ以前の宗派においては、浄土は娑婆とは全く異なった世界であり、しかも死後に行くべきところであった。法然ら伝統的浄土宗の教えでは、死に際して阿弥陀仏が眷属を伴って現れ、死者を極楽浄土へ案内してくれるという信仰があった。親鸞の真宗にあっては、浄土は娑婆と不即不離のところにある。このことを大拙は次のように言い換えている。「浄土を生死の彼岸に見るべきではなく、『生死則涅槃』であり、また『煩悩断ぜずして涅槃を得る』のであるから、信則証・証則信で、速疾円融の妙理がまたここにも行われていなくてはならぬ」

「教行信証」は親鸞の主著であるが、その題名には親鸞の信念が込められている。それを大拙は次のように読み解いている。「教」は阿弥陀の教えである、「行」は阿弥陀の名号を唱えることである、「信」は阿弥陀の教える真理についての信心である、「証」は信心の証である。つまり、阿弥陀への深い帰依心をあらわした文字を組み合わせて、書の題名としているわけである。

大拙は、親鸞の真宗と禅との間に深い共通点を見出したというが、親鸞のいう他力の信心が、禅の悟りとどのような関係にあるかについては、この小文では触れていない。禅の悟りは、自力の努力を通じて達せられると考えるのが普通の理解だと思うから、禅と他力とをストレートに結びつけることはできまい。結びつけるためには、別に媒介項を探さねばならない。それはおそらく涅槃についての考えなのだろうと思う。真宗の涅槃は娑婆と不即不離のものであった。禅の涅槃もまた、娑婆と離れたものではない。娑婆にいながらにして涅槃の境地に達するということになっている。ただそこへ達するために、真宗では念仏のみを条件とするのに対して、禅は禅定という努力を求める。そこが他力と自力の違いである。






コメントする

アーカイブ