加藤周一の荻生徂徠論:日本文学史序説

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新井白石と荻生徂徠はほぼ同時代人であって、政権の中枢と近い関係をもったことでも共通するので、とかく比較されやすい。この二人のうち、丸山真男は徂徠を高く評価し、加藤周一は白石を取り上げることが多かった。といっても、白石を徂徠の上に置くわけではない。加藤は白石の実証的な姿勢を高く評価するのであるが、徂徠にもそうした実証的な傾向はある。学問としてのレベルにおいては、この二人はおそらく優劣つけがたいというのが加藤の本音だったと思われる。加藤が白石のほうにより強いこだわりを見せるのは、白石の思想とか業績といったことよりも、その人間性にひかれたからではないか。人間性という点では、徂徠には非常に意固地なところがある(伊藤仁斎に対する意趣返しはその典型である)。

徂徠が画期的なのは、歴史を相対的な視点からみる方法を確立したことだ。徂徠以前の歴史観は、儒学の影響のもとで多分に名分的なものであって、政治的価値と個人の倫理的な価値とを連続したものと考えるものであった。それに対して徂徠は、政治的価値と個人の倫理的価値を、別の基準で評価した。それによって政治を道徳から区別した。そうすることで政治を、実証的に考える視点を導入した。儒学によれば、政治とは普遍的な原理をこの世に適用したものであり、したがって自然の秩序と同じものとしてとらえられた。徂徠は政治を先王すなわち歴史的な実在としての人間の行為としてとらえた。そうすることで、政治を相対的な視点から見ることを可能にした。そうした加藤の見方は、丸山真夫のそれに非常に近い。

とはいえ加藤は、徂徠がいう「先王の道」に強度の規範性を認めてはいる。「先王の道」は単に歴史的な一規範ではなく、たとえば同時代の日本にも通用するような超歴史的な規範でもありうる。だがそれは条件付けだと加藤は考える。中国において成立した「先王の道」は、中国の封建時代における制度を前提にしていた。中国は加藤によれば封建制から集権制へと移行した。日本はその逆で、集権制から封建制へと移行した。徂徠の同時代における日本は封建制の世の中だから、中国における「先王の道」が日本にも当てはまるのは当然のことなのだ。

「先王の道」とは、言葉通り、支配者の設定した規範である。それを徂徠は同時代の日本に当てはめようというのである。だから「その内容は、支配者の『道』を説き、被支配者のそれに及ぶことが少なく、ほとんど一種の『君主論』に近い」と加藤は言う。徂徠の影響が、富永仲基や本居宣長に深刻にあらわれ、石田梅岩のような大衆の教師にまったく及ばなかったことは、当然のことなのだ。

ともあれ徂徠の最大の功績は、儒学(宋学)を相対化(非形而上学化)し、歴史を実証的な視点から見ることを可能にしたことにあると加藤は見ている。その徂徠の散文は、感銘で理路整然としており、しかも感受性に富んでいるという。徂徠には詩人の素質があるというのである。

徂徠といえば古文辞学の確立者としての功績もある。徂徠は、宋学より以前にさかのぼるために、中国太古の文献を直接参照することを目指した。それまでは宋学の眼鏡をかけて太古の文章を読んでいたのだが、それを直接読み解くには日本語流の訓読ではなく、中国語そのままの発音で読むことが前提となる。つまり中国語を、日本語としてではなく外国語として読むことで、その文意をよりストレートに理解することができる。じっさい徂徠は、漢語の文献を外国語として、つまり中国語の発音そのままで読んだのであった。

とはいえ、中国語も変遷してきている。太古の中国語と近代の中国語では、かなりな相違がある。だから太古の中国文献を読む際には、近代の言語によって解釈するのではなく、太古の言語によって解釈せねばならない。そんな問題意識にもとづいて徂徠は、太古の中国語を習得することの必要性を説いたのであった。そこまで徹底すると、いささかマニアックに映る。じっさい徂徠にはそうしたマニアックなところがあって、それが、かれの意固地さと結びついていると考えることもできる。

以上、徂徠には歴史家としての側面と、詩人としての側面がある。徂徠には大勢の弟子がいたが、歴史的な側面を受け継いだのは太宰春台であり、詩人としての側面を受け継いだのは服部南廓である。徂徠の影響は直弟子への直接的な影響にとどまらず、富永仲素や本居宣長まで及んだことは前述したとおりである。






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