メルロ=ポンティの他者論:「知覚の現象学」を読む

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デカルトのコギトから出発した西洋近代哲学にとって、他者の問題は解きがたいアポリアだった。意識によってすべてを基礎づけようとすれば、私の意識以外のものはすべて対象であって、他者もまた対象である限り、机や椅子となんら変わりはない。私は私が意識であることを確実に知るのであるが、机に意識が宿っているとは思わないし、それと同じように、他者にも意識が宿っているとは明言できない。意識にこだわる限り、意識の担い手としての他者は、わたしにとっては明瞭なものではないのだ。無論私は、他者が自分と似た存在であると思う限りにおいて、自分が持っている意識を他者もまたもっていると推測することはできる。だが、それはあくまでも推測であって、明証な事実の認識ではない。ともかく意識から出発する限り、他者の問題は解きがたい難問なのである。

他者の問題が解きがたいというのは、他者を問題とした哲学者のほとんどが、それを明確に説明できなかったことからわかる。他者を問題とした哲学者としてとりあえず思いつくのは、ヘーゲル、サルトル、レヴィナスの三人である。ヘーゲルは意識の形をとった精神を問題にしたうえで、その精神を個別的な意識としてではなく、すべての人間にあてはまる客観的な精神としてとらえ、それを絶対精神と名付けた。個別の存在としての私の意識は、その客観的な絶対精神が、わたしという個別の存在形式をとって現れたものなのだ。同じことは、私とは異なった他者についても言える。他者の意識もまた、絶対精神の個別的な現れという点では、私の意識と変わらないのである。しかしヘーゲルのこの議論は、他者の起源を説明しようとして、すでに他者の存在を前提したものであり、したがって論点先取りのミスを犯しているといわざるを得ない。ヘーゲルは、他者を私とは異なった存在としては解明できなかったのである。ヘーゲルが、私と他者との関係を、主人と奴隷の関係にたとえたのは、かれが他者の問題を正当に取り上げられなかったことのあらわれである。

サルトルもまた、私と他者の関係を、ヘーゲル流に主人と奴隷の関係にたとえて説明するのを好んだが、その場合、私と他者とはヘーゲルのいうような絶対精神の個別の現れなどではなく、それぞれが対自存在としての自律性を持っていると考えた。私も他者もそれぞれ対自存在として、私は他者を自分の意識の対象とするのであるし、他者は他者で私をかれの意識の対象とするだろう。つまり、私と他者とは、それぞれ自分以外の人間存在を、自分の意識の対象として、ということは即自存在として、自分の内部にとりこもうと互いに相争う関係にあるとされる。そこに主人と奴隷の関係が比ゆ的に言及される。サルトルの場合は、その主人・奴隷関係を、サド・マゾ問題に絡めながら論じている。どちらにしてもサルトルの他者論は、私と他者との相克を中心としたものであり、共存とか協働あるいは愛の関係といったものは前景化しない。それはサルトルが、人間は本質的に孤独な存在だと考えていたからであろう。

レヴィナスは他者の問題をかなりユニークな仕方で論じた。レヴィナスは、リトアニア出身のユダヤ人であり、したがってデカルト以来の西欧の知的伝統から比較的自由な立場に立つことができた。そのレヴィナスにとって、他者は私の延長上に現れる二次的な存在ではなく、かえって私の存在を基礎づけるものである。レヴィナスは他者の具体的なイメージとして神を持ち出し、しかもその神を女性的なものとしてイメージした。ユダヤ教の伝統では、父性的な男性原理が優位だといわれているが、レヴィナスは神に女性的な包容性をもとめたのである。その点では、かれはふつうのユダヤ的感覚からはずれていたといえなくもないが、しかし神によって人間存在を基礎づけようとするところは、やはりユダヤ的な発想である。そんなわけでレヴィナスもまた、他者の起源を説明しようとして、すでにそれを前提にした議論をしているわけである。

では、メルロ=ポンティの場合はどうか、かれは、(意識の担い手としての)他者の問題に、意外にあっさりとした回答を与えるのである。メルロ=ポンティにとって、私とはまず身体である。身体であるということでは、他者もまた同じである。つまり私も他者も人間的な身体をもつことで結びついているのである。色情は人間の身体性がもっとも露骨にあらわれたものだが、われわれが色情をもよおすのは他者に向かってなのである。色情が根本的な人間性を構成するものであれば、他者の存在は私にとって、やはり本質的なことがらなのである。ところで、私の身体が意識をもつとしたら、他者の身体もまた意識をもたないわけがない、ということになる。このことをメルロ=ポンティは、「もし私の意識が一個の身体をもっているのだとしたら、なぜ他の身体が意識を<もって>いてはならないのか」(竹内・小木訳)と言っている。ともあれかくして、メルロ=ポンティにあって他者の問題は身体によって解明されるのである。

メルロ=ポンティの他者論は、他者を私との相克の関係においてとらえるサルトルの議論とは異なって、私と他者との関係を協働の関係としてとらえたうえで、その協働の関係から言語を含めた文化が成立すると考えるところに特徴がある。私と他者との関係は、とりあえずは一対一の関係として捉えられるが、やがて大勢の人間の協働関係としてとらえなおされる。その協働関係は、空間的な範囲だけではなく、時間的な広がりを背景にしている。人間はなにもないところにいきなり出現するわけではなく、歴史を背負って生まれてくるのだ。その歴史の厚みの中で、言語をはじめ文化の蓄積が、個人の生きる環境を構成する。人間は身体として環境との相互関係の中で生きるわけでが、その環境は、ただに自然のみならず、文化的な要素を含んでいるのである。

他者の問題がまず私と他者との間にあらわれることは、哲学的な思惟にとって自然なことである。その関係をメルロ=ポンティは次のようにいっている。「私の意識と私が生きているがままの私の身体とのあいだ、この現象的身体と私が外部から見ている他者の身体とのあいだには或る内的関係があって、これが系を完成するかのように他者を出現せしめるのだ。他者の明証性が可能なのは、私が私自身にとって透明ではなく、私の主観性が己の身体を引きずっているからなのである」。ともあれメルロ=ポンティが他者の問題を哲学の中心部へ招き入れたことは、西欧的な思惟にあらたな地平をもたらしたという点で、画期的なことといえよう。しかもメルロ=ポンティはそれを、(これも西欧的思惟が閑却してきた)身体を手掛かりにして解明したわけである。






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