徳川時代の文人文化:加藤周一「日本文学史序説」

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徳川時代を通じて日本文学の中心的担い手は武士であり、その武士の社会から文人文化というべきものが育っていった。文人は、かならずしも武士のみにとどまらず、じっさい徳川時代の半ば以降は、庶民層の出身者が多く参加したのであるが、そのエートスには武士の気質が大きくかかわっていたといえる。武士のエートスというのは、儒学とりわけ宋学の精神を中核とするものであるが、そうした精神を庶民層が受け入れていくことで、町人の間から文人文化の担い手が出てきたり、石田梅岩の心学が育ってきたりしたわけである。

徳川時代の文人文化の最初のリーダーは柳沢淇園だと加藤周一はいう。柳沢淇園は、柳沢吉保の家老の家柄の出であり、要するに上層武士であった。家に食客を置くことを好み、また芸術家を保護した。かれの保護を受けた芸術家には池大雅などがある。自身は遊里に遊びながら独特の文人文化を育んだ。かれのそうした気質は、すでに若いころの著作「ひとりね」に現れているという。そこで喧伝されている価値観は、加藤によれば、現世享楽主義、好色、中国古典文化へのあこがれ、俳諧趣味といったものだった。現世享楽主義は、日本土着の信念なので、淇園のみの特徴ではない。好色については、おそらく淇園以前にこれを正面から発揚したものはいなかったのではないか。中国古典へのあこがれは、文人文化をもっとも強く特徴づけているもので、幕末に至るまで、文人をきどるものはみな自ら漢詩を作ったものである。俳諧趣味は、幕末に向かうにつれてますます強まっていった。その伝統の中から、平賀源内や太田南畝といった文人が現れるのだが、かれらはその俳諧趣味を笑いの文学に高めていった。笑いの文学が権力批判と結びつくと、成島柳北のようなユニークな人物が出現するわけである。

徳川時代の半ば以降(18世紀の後半)に文人文化の中心となったのは木村蒹葭堂である。蒹葭堂は武士ではなく富裕な町人であったが、その周りには、武士出身の文人も集まり、大きな文人サロンを形成していた。かれの周辺にいた著名な文人芸術家の中には、上田秋成、建部綾足(小説家)、太田南畝(狂詩、狂歌)、司馬江漢、与謝蕪村、谷文晁(画家)などがいる。建部、太田、谷は武士の出身、そのほかは庶民の出身である。与謝蕪村などは農民の出身であり、そのころの日本社会が、身分制秩序のある種の液状化を呈していたことをうかがわせる。

文人文化はいろいろな芸術領域を含んでいたが、その背景としては、芸術の大衆化といえる状況が成立しつつあったと加藤は考えているようである。そうした大衆化の波が、絵画や文学作品(小説、俳諧など)への需要を高めたということらしい。それが、上田秋成のように、もっぱら小説作品を描くことで生計を立てるような人物を生んだのであろう。

文人文化はさまざまな階層の人間を包含していた。そのことから、集団としてのルールが発達したと加藤はいう。出自の異なる人間が集まる場合、かれらをまとめるのに最低限必要な規範が作られる。その規範は、個人の自由よりも集団としての約束事を重視するようになる。加藤は文人社会の特徴を、儀式化に求めているが、儀式化とは個人が集団に組み込まれるさいの約束の徹底ということだろう。

蒹葭堂の周りに形成された文人のサロン文化は、その後も幕末にいたるまで存続し続けた。その流れに掉さすかたちで、鷲津毅堂や大沼沈山を中心とした文人サロンが生まれ、その文化が永井荷風のような江戸趣味の文学者に受け継がれた。毅堂は荷風の母型の祖父だが、その毅堂が体現していた江戸文人文化に、荷風は限りない愛着を抱いたのである。その荷風の最大の特徴は好色趣味ということになるが、荷風はその好色趣味も、徳川時代の文人文化から汲み上げたのではないか。荷風の好色趣味は成島柳北の衣鉢をついでいるようであるが、その柳北は、柳橋の遊里から雅号をとったように、好色趣味に没頭していた時期がある。その好色趣味は極度に洗練されたもので、玄人芸者を相手に儀式化されたものであった。荷風もまた、自分は玄人芸者を相手に洗練された好色趣味を楽しんだのであって、素人女相手に野暮なことはしなかったと自慢している。

こういうと、江戸の昔の文人文化は、好色趣味に尽きるととられがちだが、じっさいそういう面を強く指摘できるとしても、文人文化にはほかにも、優雅さを重んじるまじめな側面もあったわけで、誰もかれもが好色趣味におぼれたわけではない。というのも、文人文化はそもそも武士のエートスを表現していたのであって、そのエートスにおいては、好色は唯一関心の的とはなりえないからである。






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