ゴーゴリ「死せる魂」を読む

| コメント(0)
ゴーゴリは「死せる魂」を三部構成の長大な小説として構想していた。その構想は、第一部(現存する「死せる魂」)の最後の章で示されている。この章は、小説の主人公チチコフが従僕を率いて馬車を走らすところで終わっているのだが、かれらの旅の前には、さらに「膨大な二編」分の話が待っていると書いているのである。それがどんな内容になるのか、については語っていない。だがゴーゴリはこの三部作の小説全体を、ダンテの「神曲」にならって構想していたことがわかっている。ダンテの「神曲」は、第一部が「地獄編」、第二部が「煉獄編」、第三部が「天国編」という構成だが、それをモデルにしていたとすれば、「死せる魂」の第一部は「地獄編」に相当することになり、そのあとに「煉獄編」、「天国編」に相当するものが続くことになる。

その構想は実現されなかった。ゴーゴリが第一部を脱稿したのは1841年(32歳の年)であり、その翌年にはペテルブルグの検閲委員会の審査をへて出版し、それと並行して第二部の執筆にとりかかったのだが、その出来栄えになかなか満足することができなかった。かれはいったん書き上げた第二部の草稿を1845年に焼却し、また死の直前には、やはり完成していた第二の草稿を焼却処分している。なぜそんなことをしたのか。はっきりしたことはいえない。

第一部の出版にあたっては、検閲当局から注文がついた。まず、モスクワの検閲委員会に提出したものにノーが出され、ついでペテルブルグの検閲委員会からは、題名の変更と、「コペイキン大尉の物語」の書き換えを求められた。題名については、魂とは不滅であって死すべきものではないから、「死せる魂」という題名はふさわしくないということだった。そこでゴーゴリは、検閲委員会のアドバイスを踏まえ、魂とは「農奴」のことを意味するとしたうえで(実際そういう意味もあるらしい)、「チチコフの遍歴、または死せる魂」と改めたのだった。

第一部すなわち現存する「死せる魂」のテーマは、死んだ農奴の売買である。チチコフという名の流れ者の詐欺師がとある町にやってきて、その町の有力者たちに取り入りながら、町周辺の地主を訪ね歩き、死んだ農奴の買収を申し出るというのが基本プロットである。小説の大部分は、そのチチコフと数人の地主たちとの交渉の様子を描くことに費やされている。その挙句、チチコフが病気で寝込んでいる間に、かれをめぐるけしからぬうわさが町に充満し、もういられなくなったと判断したチチコフが、二人の従僕をつれて再び放浪の旅に出るところで終わっている。そうした中途半端な終わり方になっているのは、後続する部分を予定していたからである。

死んだ農奴の売買というのは、かなり異常なテーマである。チチコフの理屈では、死んだ農奴を買うことは自分にとって利益となるし、また売るほうにも利益となるのだから、非常にいい話だということになる。死んだ農奴が買い手に利益となるわけは、第一部の最後の章で説明される。当時のロシアでは、地主は数年ごとに農奴の登録をすることになっており、その登録をもとにして人頭税が課せられていた。その人頭税は、次の登録時までは、古いデータに基づいて課せられる。だから農奴は、死んだとしてもすぐには除籍されず、新たな登録までの間は生きているものとみなされる。その帳簿上は生きていることになっている死んだ農奴がなぜチチコフに利益をもたらすのか。それは、生きていることになっている農奴には借金の担保価値があるからである。チチコフは大勢の死んだ農奴を買い入れることで、自分が大地主である体裁を整え、それにもとづいて大金を借り入れ、とんづらして大儲けをしようと考えているのである。要するにかれは詐欺師なのだ。

そんなチチコフから農奴の売買を持ち掛けられた地主たちは、さまざまな反応を見せる。かれらは死んだ農奴が売れれば自分にとって利益となるのがわかっているのだが、そもそも死んだ農奴に価値があるわけではないので、チチコフの話を真に受けることができない。なかには真に受けて、喜んで売ろうというお人好しもいるが、だいたいは、チチコフの話を疑い、なにか隠れた事情があるのだろうと推測する。その推測の裏には、売れないものでも売れるのなら、やはり高く売りつけたいという打算がある。チチコフが詐欺師なら、地主たちは強欲漢なのである。つまりこの小説は、詐欺師と強欲漢との駆け引きを描くことに費やされているわけで、それには、ロシアという国は、大体が詐欺師と強欲漢からなっているというゴーゴリのさめた見方がのぞかれるのである。

しかし、いくらなんでも、死んだ農奴の売買という発想自体が異常である。おそらくゴーゴリは、生きている農奴が現実に売買されているロシア社会の現実を、強烈に風刺しているのであろう。生きている農奴の売買をストレートに描いては、なにかと権力側から憎まれる種となる。そこで死んだ農奴を売買するということにして、事態の描写をオブラートに包む。そんな配慮が働いているようである。この小説は、農奴の売買に象徴されるような、ロシア社会の異様さをあぶりだしながら、そうした話に夢中になるロシア人の特異性にも眼を配っている。それゆえこの小説を、ロシアの腐敗堕落ぶりをテーマにしたものと考えることもできるわけである。

ゴーゴリの構想では、第一部でロシアの腐敗堕落を、ダンテの地獄に見立てて描いた後で、第二部以降で、ロシアの再生を描くつもりでいたのだろうと思われる。ロシアの再生がどのようなことをさすのか、それはゴーゴリ以外にはわからない。とりあえずわかるのは、現存する「死せる魂」が、ロシアの腐敗堕落を糾弾しているということである。なにしろゴーゴリがこの小説を書いた時代のロシアは、農奴制がまだ健在で、生きた人間が奴隷として売買されていた。そんなロシアに愛想を尽かしたゴーゴリが、ロシア人に反省を迫ったのが、この小説の歴史的な意義であると考えることができるように思う。もっともロシア人は、そんなことで反省するような人種ではない。かれらが反省するときには、その陰に打算が働いたときである。じっさいロシアで農奴解放が実施されるのは、反省の結果ではなく、農奴制がロシアの発展にとって桎梏となったという認識が働いた結果なのである。






コメントする

アーカイブ