メルロ=ポンティのコギト:「知覚の現象学」を読む

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メルロ=ポンティのコギトについての議論は、とりあえずデカルトのコギトへの批判から始まる。デカルトは、思惟の働きとしてのコギトと、その働きの主体としての我を区別して、あの有名なテーゼ「我思うゆえに我あり」を導き出した。こうした考えにメルロ=ポンティは異議を唱える。デカルトにおいては、思惟の対象と思惟の主体とは区別されるのであるが、またそれゆえにこそ、「我思うゆえに我あり」という言葉に意味があることになるのだが、メルロ=ポンティは、そうした考え方をしない。思惟の対象とそれを思惟していること(思惟のはたらきとその主体)とは区別されない。思惟の対象と思惟のはたらきは同一の「存在様相」を持つのであって、もともと一体のものなのである。それが別々のものとして区別されるのは、間違った反省のためである、そうメルロ=ポンティはいうのだ。

メルロ=ポンティは思惟を、とりあえず知覚として前提したうえで、次のようにいっている。「そもそも知覚とは、作用そのものと作用が関係してゆく項をとをバラバラにすることなど問題にならぬような、そうした種類の作用なのである。知覚作用と知覚物とは、必然に同一の存在様相をもつものであって、それというのも、知覚作用を、それがもっている、あるいはそれ自身である、物そのものに達しているとの意識から引き離してしまうことなど、できない相談だからである」(竹内、小木訳)。

ところがデカルトは、知覚作用と知覚物とを分離させてしまった。その理由としてデカルトは、知覚物の実在性についてはいくらでも疑うことができるが、知覚作用としての意識の実在性(私が考えているというその事実)は疑うことはできないからだとした。それについてメルロ=ポンティは、「もし私が物(知覚物)の現存に疑惑をもてば、この疑惑は視覚そのもの(視覚作用)にも向けられることになるのだ」と反論する。「見える物の存在は疑わしいが、単なる見ているという思惟と考えられた私の視覚は疑わしくない、とデカルトが語るとき、こんな提言は支持しがたい」というのである。

こうしたメルロ=ポンティの考え方の根底には、フッサール流の現象学の見方が働いていると思われる。フッサールの現象学は、意識とはつねに何ものかについての意識であり、何ものをも含まないような空虚な意識などというものはないとした。意識とは、意識の作用と意識の対象とが一体になったものであり、それをバラバラにしては、意識そのものがなりたたない。にもかかわらず、デカルトのように、意識の働きとその対象とを分離するのは、間違った反省のためなのである、というわけである。

その、何ものかについての意識という場合、意識を受動的なものとして考えてはならない、とメルロ=ポンティはいう。「意識とは徹頭徹尾、超越であって、しかもそれは外部から身に蒙った超越ではなくて~既述したように、そんな超越は意識の停止であるだろう~能動的な超越なのだ」。つまり意識は、つねに何ものかに向かって自己を超越してゆく働きだというわけである。とはいっても、意識が対象を自己のうちに取り込み、それを観念的なものへと総合するというわけではない。意識の働きというのは、主観と客観との接点あるいは相互作用なのである。主観が客観的な対象としての世界と出会う接点に意識が成立する、というのがメルロ=ポンティの基本的な考えである。

その場合に、主観の側は、デカルトが考えたような、透明な意識ではない。それは身体と一体となったものであって、いわば身体を受肉した意識である。その限りで、身体としての意識は不透明なものとして、世界とかかわりあっている。その世界をデカルトは、一応精神としての意識とは全く異なる、延長としての物質として位置づけたうえで、精神と物質界とは互いに次元を異にした別のものだと考えたのであったが、メルロ=ポンティは、主観を世界とのかかわりにおいて捉える。主観としての我々は、世界内存在なのである。

ということは、我々の存在は世界の存在を前提にしているわけだ。こういうと実在論のように聞こえるが、メルロ=ポンティのややこしいところは、世界は我々の存在の地平だといいながら、私というものが存在しなければ、世界もまた存在する意味がないと強弁することだ。私が存在しなかったら、私にとって世界は存在しないのだ。これは徹底した唯我論であるが、メルロ=ポンティは唯我論者とみられることを嫌っているので、自分が私というときには、その私は人類全体を代表しているのであり、しかがって「ひと」というべきものだと言い訳する。

その「ひと」との関係において、一人の具体的な人間としての「私」は、偶然的な存在である。たしかに私自身は偶然的な存在なのではあるが、集合的な私としての「ひと」は世界との関係においては必然的な存在性格をもっている。というのは、「ひと」が世界を基礎づけるからである。もっともメルロ=ポンティ自身は、世界は事実としてそこに、つまり私の経験の地平として現実に存在している、という点では偶然性を帯びているという。ともあれ「世界とは、現実的なものであって、必然的なものも可能的なものも、この現実的なものの単なる一区劃にすぎないのである」。

コギトという言葉にもどると、メルロ=ポンティはこの言葉をデカルト批判のためのスローガンのように使っており、本来の意図は、コギトの主体としての我々を、世界とのかかわりにおいて捉えようとすることにあったといえよう。





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