自由について:鈴木大拙「東洋的な見方」

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西洋的な見方と比較して、もっとも東洋的な見方といえるものは、自由についての見方だと大拙はいう。自由というと、西洋的な見方では、消極的な意味合いしかない。英語で自由をフリーダムというが、フリーダムとは「何ものかからの自由」である。たとえば、束縛からの自由とか、誘惑からの自由といった具合に。つまり西洋的な自由は、つねに逃れるべきなにものかを前提している。それに対して東洋的な見方では、自由は消極的なものではなく、積極的なものである。何ものかからの自由というと相対的な意味合いになるが、東洋的な見方では、自由はそれ自体としてある。つまり絶対的な意味合いをもっている。

その東洋的な意味合いでの自由を大拙は、「ものがその本来の性分から湧き出る」ことだと言っている。ものがそのもの本来のあり方を発揮している状態を自由というのである。卑近な言葉で言い換えれば、「松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること」である。「松は松として、竹は竹として、山は山として、河は河として、その拘束なきところを、自分が主人となって、働くのであるから、これが自由である」

だから、東洋的な意味合いでの自由は、自然と重なっている。自然とは、客観的な対象世界としての自然という意味ではなく、あらゆる物事がそれ本来のある在り方に住することをいう。だから「しぜん」とはいわずに、「じねん」という。

「自由」といい、「自然」といい、東洋独自の見方だと大拙はいう。両者ともに、「東洋伝来の思想系統が、深く根をおろしている」。なかでも仏教的な思想に深く根を下ろしているという。それらの言葉は、つまり漢字で書かれた「自由」とか「自然」とかは、「元来は仏教の言葉で、仏典とくに禅録には到るところに見える」。

要するに、自由にしろ自然にしろ、ものごとがその本来のあり方に住している事態をさすわけであるから、そのものを理解するのに、ほかのものとの対比を介在させる必要はない。そのものとして理解できる。であるから、その概念は他者との比較を介在させる相対的なものではなく、そのもの自体に立脚する絶対的なものである。

禅者の言葉に、「大用、現前するとき、軌則を存せず」というのがあるが、この大用とは、自由の働きをいう。用は動作で、はたらきのことをいい、大は絶対という意味である。軌則は模範とか範型という意味だが、要するにものごとを科学的な認識に導くための枠組みのようなものである。自由がはたらくときには、そうした枠組みは意味をなさない。枠組みにあてはめて物事を分節するのが人間の認識の順序であるが、そうした順序を超越したところに自由が成り立つというのである。

大拙はこの「大用、現前するとき、軌則を存せず」という言葉が好きで、日本人はつねにこの言葉を記憶して欲しいといっている。

ところで、この東洋的な意味合いでの自由というものを、西洋人がまったく理解しなかったわけではないと大拙はいっている。たとえばエマソンの場合だ。エマソンは「セルフ・リライアンス(自己信頼・自信)」という言葉を強調した。そのセルフ・リライアンスが、自由に極めて近い。

この自由という言葉の大意について、大拙は次のように要約している。「『自由』とは、自らに在り、自らに由り、自らで考え、自らで行為し、自らで作ることである。そうしてこの『自』は自他などという対象的なものでなく、絶対独立の『自』~『天上天下唯我独尊』の、我であり、独であり、尊である~であることを忘れてはならぬ。これが自分の今まで歩んできて、最後に到達した地点である」






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