富永仲基と安藤昌益:加藤周一「日本文学史序説」

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富永仲基と安藤昌益を、加藤周一は日本の思想の歴史において極めてユニークな存在だったと評価している。この二人はともに、徳川時代の前期、18世紀の前半に活躍した。安藤昌益のほうは明治時代になって始めて広く紹介されるようになったのであり、それ以前には無名に近かった。だから同時代はともかく、徳川時代を通じて周囲に影響を及ぼすことはなかった。それに比べて富永仲基のほうは、本居宣長や平田篤胤によって高く評価されたものの、これも影響は小範囲にとどまった。しかし、そうした影響力の強弱は別にして、かれらのようなラジカルな思想家が生まれたということ自体が、日本の思想史にとって画期的なことだったと加藤は言うのである。

二人とも、武家中心の社会における身分制的秩序を徹底的に批判したという点で共通している。その批判を富永は、一応体制を受け入れたうえで、そのイデオロギーを絶対化せずに、相対化することで、その人為性の指摘と、したがって変化の可能性について論じたのであったが、自身がその変化にコミットすることはなかった。これは、かれが30歳の若さで死んだこともあるが、かれの穏やかな性格にもよるのであろう。富永は富裕な町人層の出身であり、世の中の矛盾をそう深刻に受けとめるべき動機を持たなかった。一方安藤昌益のほうは、同時代の身分制秩序を徹底的に批判し、それに代えて理想的な社会を作ろうという、きわめて闘争的な姿勢を持っていた。かれの掲げた理想社会のイメージは、ユートピア的なものであって、あまり実現性を期待できないものであったが、社会の根本的な変革をめざすという点で、画期的なものだったのである。

まず、富永仲基について。富永仲基は懐徳堂の創立にかかわった富永芳春の子として生まれ、懐徳堂で学んだ。懐徳堂は町人向けの学校であったが、その教育方針は儒学を基礎としたものだった。だから仲基も儒学とりわけ宋学を学んだのである。かれはその宋学を自分なりに咀嚼し、独自の方法論を開拓した。そのかれの方法論の特徴を加藤は三つあげている。第一に加上の理論、第二に言語の役割への着目、第三にかれが「くせ」と呼ぶところの国民性の強調である。

「加上」の理論とは、各時代の学問の体系を、漸進的な発展として見るものである。どの時代の学問も、それ以前の時代の学問を前提として、それを新たに組み替えることで成り立っている。だから、孔子の学問は、それ以前の五伯道を踏まえて尭・舜の王道を説いたのであり、その孔子を踏まえて墨子が「夏の道」をとき、その墨子を踏まえて荘子や列氏の説が出てきたということになる。こういうことで仲基は、各時代の学問がそれ自体絶対的なものなのではなく、時代によって制約された相対的なものだと看破したのである。そのようなスタンスは、荻生徂徠の影響を思わせるが、徂徠が宋学はじめ様々な時代の学問(儒学)を徹底的に相対化する一方で、先王の道については、これを絶対化するのに対して、仲基はあらゆる学問を相対化することで、そのイデオロギー性を批判したのである。

加上の理論は、仏教や神道にも適用される。仏教においては、「空」の説に「識」の説が代わり、さらに「無所有」を経て「非非相」の説にいたる、あるいは小乗の「有」から般若経の「空」を経て法華経の「不空実相」の説にいたるとする。一方、神道についてはそうした細かい議論はない。その理由は、神道自体儒仏の受け売りであり、独自の思想を持たないからだろうと加藤は言っている。

言語の役割については、思想が言語の制約を受けるということに着目している。仏典についていえば、同じ梵語が漢訳される際に、訳者によって異なった言葉が当てられる(これを「言に人あり」という)。また、同じ言葉が歴史の変遷とともに変化する(これを「言に世あり」という)。つまり言語というものは、使う人や使われる時代の制約を受けるのであって、そのことをわきまえないと、言葉の意味を十分理解できないというのである。言葉の意味が十分に理解できなければ、言葉によって書かれた思想を理解できるわけがない。

「くせ」については、あるイデオロギー的な体系は、それを生んだ社会の文化的背景に深い関連があるとする見方である。仏教はきわめて思弁的であるが、それはインド人の思弁を好む傾向を反映しているのであり、また、儒教が文辞を弄するのは、漢人が言葉のもてあそびを好むことを反映しているということになる。要するに仲基は学問の研究に比較文化論の視点を取り入れたわけである。比較文化論的な視点も、イデオロギーを相対化する役割を果たす。仲基はさまざまな方法論を駆使してイデオロギーを徹底的に批判することができたのである。そうした仲基の偶像破壊的な威力をもっとも評価していたのは本居宣長だと加藤は言う。宣長は仲基に儒仏批判の仲間を感じたらしい。仲基は神道を攻撃すること急ではなかったから、宣長としても敵視する理由がなかったのであろう。

富永仲基が同時代のイデオロギー批判に没頭しながら社会の変革までは説かなかったのに対して、安藤昌益は社会の変革を説いた。その点で仲基よりはるかに破壊的であったわけだが、かれはほとんど孤立しており、社会的な影響力は無に等しかった。もし孤立していなかったとしても、その過激な思想はやすやすと受け入れられることはなかったであろう。

昌益の思想を簡単にいえば、同時代の社会システムの人為性を指摘し、それが人為的に変革できると指摘したうえで、それに代えて理想的な社会を作ろうというものだった。だが、その社会のイメージは空想的といえるほどに現実離れしたものだった。かれは一切の人為を排して、自然そのままの社会を作ろうと主張したのだが、その自然そのままの社会のイメージは、社会といえるような代物ではなく、野生動物に近い生き方を感じさせる。とはいえ、かれの人為的な社会(「法世」という)に対する批判は、それとして迫力があり、かれが夢見たユートピア(「自然世」という)のイメージにも人を惹きつけるところがないわけではない。じっさいハーバート・ノーマンのように、昌益のユートピア思想に深い共感を示した外国人もいたのである。






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