クリント・イーストウッド「チェンジリング」:取り換えられた息子

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クリント・イーストウッドの2008年の映画「チェンジリング(Changeling)」は、失踪した息子のかわりに他の子供を、警察によって息子として押し付けられた母親の戦いをテーマにしたもの。警察の横暴ぶりと、それに立ち向かって自由と正義を実現しようとするキリスト教社会の行動ぶりなど、いかにもアメリカらしいテーマである。この映画を見ると、クリント・イーストウッドが敬虔なキリスト教徒であることが伝わってくる。イーストウッドは、日本では右翼的な印象を持たれているが、この映画を見る限り、右翼というよりは、まっとうなキリスト教徒(穏健な保守派)とう印象を受ける。

ある日、突然姿を消した息子を求めて、母親(アンジェリーナ・ジョリー)が警察に捜査依頼をするも、警察は取り合ってくれない。どこかで遊んでいるのだろうと軽く見ているのである。警察は忙しいというわけである。ところが、地域の長老派の牧師は、信徒を前に辛辣な警察批判を行っていた。ロサンゼルスの警察は、無能で腐敗している、市民の安全などに関心はなく、自分たちの利権に夢中になっているというのである。それでも母親は、警察に歎願し続ける。そんな母親を警察は煙たく思う。

失踪してから五か月後、あなたの息子が見つかったといって、警察が他の子供を母親に押し付ける。母親が、この子は自分の子ではないといっても、警察はとりあわない。それでもこれは違うと抗議すると、それはあなたの頭がいかれているからだといって、彼女を精神病院に強制的に入れてしまう。精神病院では、母親は身体的・精神的な拷問をうける。そのシーンを見ると、この時代のアメリカの精神病院は、患者の治療のためにあるのではなく、社会に適応できない人々を隔離して、時によっては抹殺することをこととする場所だったという印象をうける。警察と精神病院がスクラムを組んで、かれらが反社会的とみなす人々を迫害するわけであるから、迫害される個人にとって、これほど恐ろしいことはない。その恐ろしさは、精神病院を舞台にした有名な映画「カッコーの巣のうえで」で描かれていたが、イーストウッドのこの映画も、一時期のアメリカの精神病院のあり方を痛烈に批判しているのである。

転機となる事態が起こる。不法入国の少年を取り調べているうちに、おぞましい事件の詳細が明らかになる。その事件とは、ある男が20人もの子供を誘拐し、猟奇的なやり方で殺害したというものだった。その男に殺された子供たちのなかに、失踪した息子が含まれていた可能性が高い。じっさい警察は、この事件の解明を通じて、彼女の息子の失踪事件は解決したとして、幕引きをはかる。しかし、彼女は息子がまだ生きているのではないかと思って希望を捨てない。一方、腐敗した警察を、地域のキリスト教社会が糾弾する。その糾弾の輪に彼女も加わる。その結果、失踪事件を担当した悪徳警官は無期限停職、警察署長は解任ということになる。市民の圧力がきいたのである。

母親は、とりあえず自分が正しく、警察が理不尽だったことが証明され、そのことでは留飲を下げるのであるが、息子がまだどこかで生きているのではないかとの思いを捨てることはできない。彼女は生涯息子を探し続けるのである。

これは、1920年代のアメリカで実際にあった出来事だという。イーストウッドがその出来事をとりあげて映画化したのは、アメリカ社会に対する強い批判意識と、キリスト教社会への信頼に促されてのことであろう。この映画では、そのキリスト教社会は長老派によって代表されている。長老派とは、アメリカ植民を担ったピューリタンの子孫たちであり、アメリカ・キリスト教社会の主流といわれている。イーストウッドもまた、そうした主流のキリスト教社会のエトスを共有しているのかもしれない。





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