メルロ=ポンティの時間論:「知覚の現象学」を読む

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時間と空間についてのメルロ=ポンティの議論は、伝統的な議論とはかなり異なっている。伝統的な議論は、実在論と主知主義によって代表されるが、どちらも時間と空間とを同じ次元で論じていた。実在論は、時間と空間とを実在的な対象に本来備わったものと見ることで、時空を同じ次元に位置づけていたし、カントによって代表される主知主義は、時間と空間とをともに理性の側にそなわる形式と見ることで、やはり時空を同じレベルに位置づけていた。それに対してメルロ=ポンティは、時間と空間とをそれぞれ異なったレベルに位置づける。空間は、主体が世界とかかわるところに成立するという意味で、主体のいわば外面のようなものである一方、時間は主体と一致している。時間は主体=主観であり、主観は時間なのである。そのことをメルロ=ポンティは、「私自身が時間なのである」と言っている。

実在論と主知主義は、時間を過去・現在・未来に分割できると考えることでも一致している。それに対してメルロ=ポンティは、時間は分割できるようなものではないという。分割できるものと考えるのは、時間を空間と同じように考えることによる過誤である。時間は、意識の流れという形をとって、全体的に推移するものなのである。いいかえれば、たえず生成していくものなのである。だから本来分割できるようなものではない。推移とか生成というのは、全体としての流れのことをいうのであり、個々の独立した現在がつぎつぎと継起するといったものではない。現在が過去へと消え去り、未来が現在に代わるということではない。過去・現在・未来は時間の分割可能な部分ではなく、全体としての時間のそれぞれ一つの要素にすぎない。時間は不可分の全体なのである。その分割不可能な時間を、ある視点から見れば現在ということになり、別の視点から見れば過去ということになり、他の視点から見れば未来ということになる。

以上のことをメルロ=ポンティは、時間とは「結合された多くの現象ではなく、流れるというただ一つの現象なのである」(竹内・小木訳)と言っている。「ただ一つの現象」とは、時間が不可分の全体だということを意味する。それゆえ、「過去は過ぎ去ってしまっているわけではないし、未来はいまだ来ないでいるわけではない」ということになる。我々が過去とか未来とかいうものは、存在していないのではなく、現前していないだけなのだ。こういうと、存在とは意識への現前であるとするメルロ=ポンティの根本的な立場と矛盾するように見えるが、じっさい、矛盾していると思われるところがある。

その矛盾に気づいてか気づかないでか、メルロ=ポンティは、「過去と未来は、私がそれらへ向かって自己を押し広げるときに湧出する」という。「自己を押し広げる」とはどういうことか。現前している現在から、過去や未来といった現在の周縁部分にまで意識を拡大させ、それによって過去と未来を現前化させるということか。その過去と未来は、現前化される前にはどのような存在様態にあったのか。メルロ=ポンティは無意識を認めないのであるから、無意識なものを意識に現前化させるという言い方はできないはずである。過去は無意識によって把持されていて、それを意識化することで現前させる、とは言えないのである。

こうした自家撞着のような事態にメルロ=ポンティが陥るのは、かれが時間をフッサールに依拠しながら考えたからだと思える。フッサールは時間を意識の流れとして定義した。つまり時間を意識の内部に閉じ込めたわけだ。ベルグソンも時間を意識と関連付けて考えたのであるが、ベルグソンの意識は大きな意味の意識であって、無意識を含んでいた。だから過去を無意識によって把持されたものとすることができたのだ。無意識を認める立場からは、それは自然な見方である。だが、メルロ=ポンティのように無意識を認めない立場からは、過去をスマートに定義することはできない。だから、過去は自己を押し広げるときに湧出する、などという奇妙な言い方を余儀なくされるわけである。

ともあれメルロ=ポンティは、「われわれにとって時間が意味をもつのは、我々が『時間である』からでしかない」と強調する。時間は過去・現在・未来からなるから、「時間である」ということは、同時に、過去であったり現在であったり未来であったりすることができるということである。それゆえ次のようにも言えるのだ。「われわれが過去にあり、現在にあり、未来にあるからこそ、われわれは時間というこの言葉のもとに何かを考えることができるのだ。時間は文字通りにわれわれの生の意味であり、世界と同様に、そこに位置を占めその方向を共にするものにとってしか近づきえないものなのである」。

以上、時間についてのメルロ=ポンティの議論にはなかり無理なところがある。その最大の原因は、かれが時間を論じるときには、「ひと」としての主体ではなく、個人としての主体にこだわり過ぎたことにあると言えそうである。「ひと」としての主体に定位すれば、自分が生まれる前にも時間は流れていたし、自分が死んだ後にも時間は流れ続けるだろうと無理なく言えるが、個人を基準にしては、私が生まれる前、というか私が意識を持つようになる前にも時間は流れていたとはなかなか言えないし、また、私が死んだ後にも時間は流れ続けるだろうとも言えなくなる。「私は時間である」とは言えても、「時間は私である」とは言えないのである。その言えないことをメルロ=ポンティは言ってしまっているのである。






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