森清「大拙と幾多郎」

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森清の著作「大拙と幾多郎」は、書名の如く鈴木大拙と西田幾多郎の交流をテーマにしたものだが、かれらの思想に触れることはまったくといってよいほどないので、思想面からこの両者の関係が語られることを期待していた読者には肩透かしになるだろう。その上、大拙・西田以外に多くの人物の伝記が語られる。これらの人物をなぜ語るかというと、かれらの墓が、大拙・西田の墓がある北鎌倉の東慶寺に並んでたっているからというに過ぎない。その一人として安宅弥吉なる人物が出てくるが、この人物には何らの関心ももっていない小生のようなものには、かえって目障りにうつる。だから、そうした余剰の部分の記述は、飛ばして呼んだ次第だ。

著者の森は、大拙研究の専門家ではなく、また学者でもなく、普通のサラリーマン生活のかたわら大拙に関心をもってきたということなので、彼に多くを期待するのは無理かもしれない。それでも彼は、大拙や西田と個人的な付き合いもいくらかはあったようで、そうした個人的な親愛感のようなものが、この本からは伝わってくる。

大拙と西田との交流は、よく知られていることだが、その詳細は意外とわかっていない。その点この本は、少年時代からの彼らの交流を描いており、二人がそれぞれ相手をかけがいのない存在と見なしていたということが伝わってくる。二人とも加賀に生まれ、金沢の四高を中途退学し、東京帝大の専科で学んだ。専科というのは、本科と比べて差別待遇を受けており、図書館も自由に使わせてもらえなかったそうだ。そういう、いわば逆境に近い境遇から、二人は自分の努力で一人前の人間になることができた。それについて、かれらは互いに励ましあいながら、生きたというふうに描かれている。二人のうち、西田のほうが先に死んだが、その西田の死の知らせに接したとき、大拙は目に涙を浮かべて悲しんだそうだ。

大拙の人生に大きな影響を与えたのは、鎌倉円覚寺の釈宗演だった。釈は大拙の参禅の指導をしただけではなく、自分の秘書代わりに使ったりもした。大拙が20代後半でアメリカに行くのは、釈の計らいによるものだ。そのアメリカで大拙は仏教研究を深化させ、「大乗仏教概論」を英文で出版した。また、生涯の妻ベアトリスと出会うこともできた。大拙は、日本人としても小男で、背の高いベアトリスとは釣り合いが取れて見えなかったという。大拙は戦後にも、9年間ほど海外生活をしている。なにしろ、95歳で死ぬ直前まで働き通しだったのである。

一方、西田のほうは、一度も国外に出ることはなく、ひたすら自分の思想を掘り下げることに一生を費やした。この本は、思想に触れることはないので、大拙と西田の間で、どのような思想的な交流があったかについては、触れていない。著者自身、これから西田の著作を身を入れて読んでみたいと言っているから、おそらく思想のことは全くわかっていなかったのだと思う。

哲学者とか思想家といわれる人たちの評伝を書くときには、その思想がどのようなものだったか、いちおう概要でも紹介するのが礼儀だと思うが、この著者の場合には、たとえば西田に関して、自分はまともに理解できていないと告白するくらいだから、多くを期待するのは無理筋ということなのだろう。それにしては、読める内容になっている。大拙・西田それぞれの人間性が、ほのかではあるが、伝わってくるのである。





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