本居宣長と上田秋成:加藤周一「日本文学史序説」

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本居宣長と上田秋成の共通項は国学だと加藤周一は言う。もっともかれらの国学へのかかわりには大きな相違がある。宣長は大勢の弟子を抱えて学閥を作り上げ、その国学の体系的な叙述は後世に大きな影響を与えた。なにしろ彼の下手な歌が、国威発揚のために利用されたくらいだ(敷島の大和心の歌)。それに対して秋成のほうは、狷介孤独で弟子を持たなかった。後世への思想的な影響力はゼロに近い。それでもこの二人に共通点を指摘できるのは、二人とも、時の武士社会のイデオロギーを否定し、日本古来の土着の文化を大事にしたからである。宣長の大げさな日本礼賛はよく知られているが、秋成もそうした日本土着の文化に親近感を抱いていたというのである。

本居宣長の思想史上の意義は、「儒仏の影響の深く及んだ文化の中で、その影響を離れた日本の土着世界観を、知的に洗練された思想の水準まで高めたこと」であると加藤は言う。それまでに現れた思想家、たとえば荻生徂徠や富永仲基といった思想家は、日本の土着思想を論じることはなかった。宣長以前に日本の土着思想を論じたものに賀茂真淵があるが、真淵の説はあまり学問的とはいえなかった。だから宣長は、「日本の古代(土着)思想を学問的にあきらかにしようとした最初の人物」だったのである。

宣長の思想を単純化して言うと、「人の情のありのまま」、すなわち人間の自然状態を重んじることである。宣長がそこで人間と言っているのは、日本人のことである。宣長にとって、インドや中国は蛮族の住んでいるところであり、そこに住んでいる蛮族は人間とはみなされなかった。そこで、その日本人の情、つまりこころのありかたは、具体的には、ただ「めめしくはかなきこと」が多く、「ををしくさかしげなる」は、「うはべを飾りたて」たるものに過ぎない、ということになる。そこから、有名な議論、つまり「ををしくさかしげなる」は漢意(からごころ)の特徴なのであって、そんなものに日本人は惑わされてはならない、という主張が出てくる。その主張が強烈な排外主義へと発展していくわけである。

宣長がそういう考えを抱くようになったのは、かれが町医者として庶民と密接に結びついていたことによると加藤は推測している。宣長は没落した武士の家に生まれたのであるが、武士のエートスは共有していなかった。とはいえ、町人の生き方にも疑問を抱いていた。そんなことから、武士や町人とは異なった、日本古来の日本人らしい生き方を理念化して、独特の日本人像を作り上げたのだと思われる。その彼一流の日本人像が、独特の世界観を支えたのであろう、と加藤は推測している。

ともあれ、「人の情のありのまま」を重視する宣長の思想は、政治的には保守主義に陥らざるをえなかった。「ありのまま」を重視する宣長の政治的なスタンスは、「時勢の勢い」を尊重するというもので、したがって現状肯定的に傾くのである。宣長といえども、「貧しきものはますます貧しく、富るものはますます富むことの甚だし」いことを嘆かないわけではなかったが、しかし、「時勢の勢い」には逆らえぬという考えからは、ラジカルな現状批判が生まれようもなかった。宣長は、幕末の尊王家たちに現状変革の議論的な根拠を与えたとよくいわれるが、基本的には変革論者ではなく、保守主義者だったのである。

宣長に比べると、秋成ははるかに現状批判的な姿勢を持っていた、と加藤は言う。秋成の政論的な著作としては「肝大小心録」があるが、この著作に一貫するのは、「反権威主義的な態度であり、無慈悲に痛烈な批評精神であり、いかなる代価を支払っても自分自身の人生を生き抜こうとする強い意志である」と加藤は言って、この著作が徳川時代文学の中で光彩を放っていると評価するのである。

秋成の文学的な達成としては、「雨月物語」と「春雨物語」がある。「雨月物語」は亡霊、狐狸、妖怪変化の類を描き、「春雨物語」は人間同士の関係を描く。秋成が好んで妖怪変化を描いたのは、彼自身その存在を信じていたからだと加藤は言う。秋成はそうした心情を庶民と共有していたのであり、したがってそこから日本古来の土角思想への共感が強まったと加藤は言うのである。秋成は儒仏の規範的な態度に、日本古来の土着思想の非規範的な態度を対立させた。そこは、儒仏を漢意として排撃し、日本古来の土着思想を「やまとこころ」として称揚した宣長と共通するところだ。

とはいえ、二人が多くの点で意気投合していたというわけでもない。二人の対立は、史上有名な「火の神論争」によってうかがい知ることができる。この論争について加藤は触れていないのだが、それを読むと、ファナティックな宣長を、斜に構えた秋成がからかっているように見える。そこは秋成の狷介孤独ぶりが遺憾なく発揮されているところだ。秋成にはもともと人嫌いなところがあり、晩年にはとくにひどくなったようだ。唯一心を許した相手は、太田南畝であった。南畝には人たらしの面があって、この頑固な老人をも、やすやすと油断させてしまったのであろう。






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