ゴーゴリの嘲笑的ロシア観:「死せる魂」を読む

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「死せる魂」を構想するにあたってゴーゴリは、ロシアを地獄に見立てたほどだから、ロシアをこき下ろしているのは当然のことだ。ゴーゴリのロシア観は嘲笑的である。ロシア人というのはろくでもない人種で、そんな人種でできているロシアという国は、地獄よりひどいところだ、そんなゴーゴリの痛罵が伝わってくるのである。

ゴーゴリはなぜそんなにもロシアを憎んだのか。じっさいかれは、「検察官」が巻き起こした騒ぎにうんざりしてロシアを脱出し、27歳の年から39歳までの十二年間にわたって(というのは短いかれの人生の大部分を)、外国で暮らしたのである。「死せる魂」は外国で書き継がれたのであり、その外国から見るロシアは、いっそうみじめに見えたのであろう。なにしろ西欧各国と比べると、ロシアとロシア人はあまりにも非文明的で、むしろ野蛮と映ったに違いない。ロシアの野蛮さは、プーシキンやレールモントフも気づいており、のちにはチェーホフも強調していたことだから、ひとりゴーゴリのみがそれを批判したわけではない。だがゴーゴリのロシア批判は実に手が込んでおり、読むものをして複雑な気分にさせる。ゴーゴリの筆にかかったら、どんなにえらそうなロシア人も間抜けにさせられてしまうのである。

ゴーゴリのロシア嫌いを彼の出自にもとめる見解もある。かれはいまのウクライナのポルタヴァ県(キエフとドンバスの中間あたり)に生まれ育った。だから今の感覚からすればウクライナ人である。昨今ウクライナではナショナリズムの気運が高まってきて、ゴーゴリをウクライナ人の誇りとして考える人が増えてきた。中には、ゴーゴリはロシア文学の先駆者などではなく、ウクライナ文学の祖というべきだとする意見もある。もっともゴーゴリ自身は完ぺきなロシア語で作品を書いており、自身ロシア人としてのアイデンティティを抱いていたので、そういう見方は根拠に乏しい。ゴーゴリの言うロシアには、ウクライナも含まれているのであり、ウクライナ出身であるかれのアイデンティティはロシア人ということにあったのだ。だからゴーゴリのロシア批判は、外からの視線ではなく、内からの視線によって支えられており、したがって近親憎悪のようなものなのである。

ともあれゴーゴリは、かれの畢生の作品「死せる魂」のなかで、ロシアとロシア人を嘲笑・痛罵してやまない。その嘲笑・痛罵があまりにも執拗なので、読者はいささかうんざりさせられるほどである。だが、それがじつにソフィスティケートされたものなので、うんざりしながらも笑わないではいられないのである。

ここでは、そんなゴーゴリのロシア批判のありさまを、いくつかの事例に即して見てみたいと思う。

ゴーゴリは、ロシア人の悪口を言う前に、かれらの美徳に言及することを忘れない。悪口ばかり言っていては、なにか意趣があるのだろうと思われ、公平な発言とは受け取ってもらえないからだ。そこでかれがロシア人の美徳としてあげるのは、善良さである。ロシア人は概して善良な人たちであり、「お客をもてなすのが好きで、歓待の食卓を共にしたり、ひと晩ホイスト遊びの相手でもつとめれば、もうそれですっかり親しい仲になってしまう」(横田瑞穂訳)のである。この善良さのおかげでチチコフは、初対面の人たちと早速仲がよくなれたわけである。

善良さに加えて、ロシア人には何にでも適応できるという美点が備わっている。「ロシア人ってやつは、何にでも適応していくことができるし、どんな気候にも慣れていく。たとえカムチャツカに送ったにしろ、暖かい手袋一つくれてやりさえすれば、手を叩いて喜び勇み、斧を手にして、新しい小屋掛けをする木材を伐りだしに出かけて」いくというのである。

一方、悪徳のほうは際限がない。もっとも典型的なのは、貪欲さである。チチコフはそれを強く体現しており、税関の官吏をやっていたときには、その地位を利用して巨額の金をかせいだ。かれはそれを犯罪的だとは思っていない。自分がやらなければ、ほかの奴らがやるまでの話だと思っている。「誰だって私腹を肥やしているじゃないか。おれは誰一人も他人を不幸におとしいれたおぼえはない。おれは後家さんから、ふんだくったりしたこともなければ、人を零落させたこともない、ただお余りを頂戴しただけのことで、それは誰もがやるような場合にやったまでのことで、おれが取らなければ、他の者が取ったにちがいないのだ」というわけである。

チチコフがスケールの大きい貪欲漢とすれば、下々のロシア人は、人の油断につけいって金をだまし取ることにたけている。たとえば鍛冶屋。「鍛冶屋たちといえばたいていきまって札付きの悪党で、急ぎの仕事だと見てとると、六倍もの高値を吹っかけたりするのである。チチコフがどんなにいきり立って、彼らをかたりだ、強盗だ、旅人を苦しめる追いはぎだといってののしり、果ては最後の審判の怖ろしさをほのめかしてみても、鍛冶屋どもは平気の平左で、どこまでも強情を張りとおし~賃金をまけなかったばかりか、たっぷり五時間もかかってしたのであった」。

貪欲というのではないが、金のために非道なことをする輩がロシア人には多い。たとえばノズドリョーフは、カルタにまけた抵当に、実の父親を売り飛ばしてしまったという。

ロシア人はそのほかにも色々な悪徳を抱えているが、なかでも目立つのは、酒癖の悪さと放浪癖である。これはとりわけ百姓たちの間に強くみられる傾向であるが、チチコフをはじめ、地主階級にも見られる普遍的かつロシア的悪徳である。

農奴制時代のロシアはカースト社会であるから、身分間の差別がはなはだしい。人は身分に応じて、へりくだったり、ふんぞり返ったりする。上役に対しては平身低頭して顔色を窺い、下っ端に対しては殿様のようにふるまうのである。その様は、大勢の犬からなる世帯の父親のようである。

ロシアには平等な人間関係が成立していないから、まともな会議もなりたたない。どんな会議でも、「ちゃんと一同を宰領する首脳者がいないと、きっととほうもない混乱が生じる。なぜそうなるのかを説明するのはなかなかむつかしい。この国の人たちは、ただ飲んだり騒いだりするために催される、つまり、クラブとかドイツ式の園遊会でないと、なぜかうまくいかないらしい」。

ドイツ式だけではなく、フランス式もロシアのとくに上流階層では人気がある。だいたいロシアの上流階級は、フランス語を使いこなすことが、人から一人前にみられる条件になっているのである。作者はそうした状況に違和感を覚え、次のように断っている。「いかにフランス語がわがロシアにもたらす救世主的利益を多とし、またもちろん祖国に対する深い愛情からではあるが、四六時中、フランス語を使っているわが上流社会の賞賛すべき風習をいかに徳とするとしても、それでもなお作者は、このロシアの叙事詩の中へ、たとえどのような文句にせよ、外国語を引用する気にはどうしてもなれないのだ」。

ロシアでは、下層階級の連中つまり百姓どもが上流階級の真似をするのがはやっているが、さすがにフランス語はそういうわけにはいかない。百姓がフランス語でしゃべろうとするのは、ロシア式の言い回しをすれば、「まるでやっとこをつかって馬に首輪をはめるような呂律なの」である。

こんなわけで作者つまりゴーゴリは、「ああ! なんという輝かしくもいみじき、世に知られぬ僻地であろう! ロシアよ・・・」といって絶句せずにはおられぬのである。

かくして、「死せる魂」第一部は、次のような作者の感慨をもって結ばれるのである。「ロシアよ、おまえはいったいどこへ飛んでいこうとするのだ。きかせてくれ。だが、答えはない。鈴の音が妙なるひびきをふりまく、きれぎれに引きちぎられた空気は、鳴りはためき、風をよぶ。ロシアは、地上にありとあらゆるものをのりこえて、飛んでいく~ほかの国民と国々は、それを横目で見ながら、わきにのいて、ロシアに道を譲るのである」。






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