メルロ=ポンティの自由論

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メルロ=ポンティにとって、自由は選択の問題である。その点では、伝統的な議論とつながるものがある。伝統的な議論は、自由を必然性との対立においてとらえ、必然性に束縛されることのない選択こそが自由の意味なのだとした。だが、そんな選択はありえないとメルロ=ポンティは言う。自分はたしかにある事柄について選択しないことはできるが、その点では選択を強制されるものではないが、しかしその場合でも、まったく何も選択しないわけではなく、別のものを選択しているに過ぎない。それがたとえ、ある事柄を選択しないという選択であるとしても。

ということは、人間とはたえず選択を迫られている存在だとメルロ=ポンティが考えているいうことだろう。人間はたえず選択をせまられる。なぜなら人間は抽象的な理性などではなく、具体的な身体をもったものとして、というより身体そのものとして、世界の中に放り出されているからである。その自己を取り巻く世界は環境とか状況という形であらわれる。人間はたえずその環境とか状況とかにかかわりあいながら生きていかねばならない。そうした人間は、思惟する存在というよりは、行動する存在というべきである。行動にはつねに選択がからまる。選択を含まない行動は意味を欠いた行動である。意味のある行動にはかならず選択の裏付けがある、というのがメルロ=ポンティの考えである。

人間が環境とか特定の状況とのかかわりあいにおいて選択をする場合、その選択は、何ものにも縛られない無制約のものではない。私がある選択をする場合、それは私が置かれている状況の強い束縛の影響を受ける。私は透明で空虚な意識としての存在なのではなく、身体として、しかも文化とか自分自身の歴史のうえに成り立っている存在なのだから、当然文化的な背景とか自身の過去の経験の蓄積のうえに、行動とか選択にさいして一定の構えをもっている。その構えのことをメルロ=ポンティは「スタイル」というのだが、人間とは一定のスタイルを介して環境ないし状況にかかわるのである。そういう意味で、人間は絶対的な自由をもつわけではなく、すでに一定の制約を自分自身に課してしまっているのである。

この事情をメルロ=ポンティは次のように表現している。「わらわれは解きがたい混乱の中で世界や他人に巻き込まれてしまっている。状況という考え方は、われわれの参加の起源にある絶対的自由を排除する。のみならず、それはまた、われわれの参加の終局にある絶対的自由をも排除する」(竹内。小木訳)。

つまり我々人間は、無制約な絶対的自由ではなく、ある特定のスタイルを前提にして、そのスタイルの許す範囲内で選択をしているにすぎない。そのわけは、人間とは、社会のなかで他人との文化的な関わり合いを通じて自分を形成するものであり、また、たえず自分を形成していく歴史的な構造物だからである。メルロ=ポンティはいう、「私は一個の心理的かつ歴史的構造である。そして、私は実存と共に或る実存の仕方、或るスタイルを受け取ってしまっているのだ。私のすべての行動、すべての思惟はこの構造と関連しており、哲学者の思惟さえも彼の手がかり~これこそ彼なのだ~を明確化するひとつの仕方にすぎない」。

こういったうえで、メルロ=ポンティは、「自由は、世界のうちに根を下ろしていなければ、己れが自由ではありえないということに気づいていないのである」と断定するのである。そういうと、メルロ=ポンティはある種の必然性論者だという印象を受ける。たしかに、自由が状況によって制約されるという考え方は必然性の容認には違いないが、メルロ=ポンティの場合には、自由と必然性とを対立関係のみでは見ない。両者は協調関係にあると見るのである。その例としてメルロ=ポンティは、サン=テグジュペリの次のような言葉を、書物の結末部分で引用する。「君の息子が炎に包まれていたら、君は彼を助け出すことだろう・・・もし障害物があったら、肩で体当たりするために君の肩を売り飛ばすだろう。君は君の行為そのもののうちに宿っているのだ。君の行為、それが君なのだ・・・君は自分を身代わりにする・・・君というものの意味が、まばゆいほど現れてくるのだ。それは君の義務であり、君の憎しみであり、君の愛であり、君の誠実さであり、君の発明なのだ・・・人間というのはさまざまな絆の結節点にすぎない。人間にとっては絆だけが重要なのだ」。

切迫した状況の中で息子を助け出すという選択は、ある意味では状況から強いられた選択ではあるが、それはしかし自由が損なわれたということを意味しない。それは自由な選択としての選択なのであり、いささかも自由と対立することはない、というのがメルロ=ポンティの理屈である。そうした理屈は、哲学的な議論としてはあまりスマートなものではない。だが、メルロ=ポンティのように、人間を社会的・歴史的存在として見ながら、しかも自由な人間としてのその自由にこだわらざるをえないものにとっては、これ以外に考えようがないともいえる。メルロ=ポンティのそもそもの問題意識は、観念論と実在論とを和解させるということであったが、そうした問題意識が、自由と必然性との調和というような折衷的な考えに導いたのであろう。





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