辨道話:正法眼蔵を読む

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道元が「辨道話」を書いたのは寛喜三年(1231)、四年にわたる宋留学から帰国して四年後のことだ。その時道元は京都深草の廃寺の近くに草庵をもうけて、ひっそりと修行を続けていた。後に高弟となる懐奘が師事を許されるのは文暦元年(1234)のことである。

「辨道話」は、宋における修行の成果を述べ、自分が天童如浄によって開眼(得度ではない)したことと、その開眼つまりさとりについての認識の具体的な内容について語ったものである。「道」は仏道をいい、「辨」は弁ずるという意味だが、ここでは修行という意味合いで使われている。だから「辨道」は仏道を修行するというような意味である。徂徠にも「辨道」という書があり、そちらは儒教の説く「道」を弁ずる、つまり説明するという意味だが、それは後世の使い方であって、道元において「辨道」は上記のような意味合いで使われている。

「辨道話」は独立した著作として書かれたもので、「正法眼蔵」とは本来別のものである。だが、現行の岩波文庫版「正法眼蔵」(水野弥穂子校注)では冒頭に置かれている。正法眼蔵全体への序論、あるいは総論のような位置づけなのであろう。道元の教えの骨格のようなものが書かれており、これを読めば道元の考えていたことがだいたいわかるのである。

文章そのものは、道元の書いたものとしては比較的読みやすい。和文中心で言葉はわかりやすく、またこむつかしい理屈を弄することもない。だから、予備知識がなくても理解できる。

全体の構成は、大きく四つの部分からなる。一つ目は総論であり、仏教の意義はさとりにあることが語られる。二つ目は、そのさとりを得るために道元自身が行った修行について述べられる。三つ目は、さとりを得るためには只管打坐すべきであり、その結果得られる心身脱落こそがさとりの境地なのだと語られる。四つ目は問答である。これは仏教をめぐるさまざまな問題について問答を繰り返すことで、真実を明らかにしていくというもので、ソクラテスのダイアローグを彷彿させるものである。問答の相手は明示されていないが、おそらく当時の道元への批判を体現した架空の人物であろう。

一つ目の総論部分は、次のような文章で始まっている。「諸仏如来ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり」。これは、釈迦以来の仏祖たちが代々師匠から弟子に直伝してきた教えをうけ、さとりにむけて修行するには、最上の方法がある。それは、自受用三昧である、と言っているのであるが、自受用三昧とは、仏がさとりの境地を自ら楽しむ、という意味である。そのように、修行者も、さとりの境地を自らさとることで、つねにさとりの境地にいることができる。さとりというものは、一回限りの出来事ではなく、恒常的な状態なのだという意味が、この文章には込められているのである。つまり悟り(証)と修行(修)との一体不可分を主張している。

続いて、「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり」とある。さとりの境地を自受用三昧するには、もっぱら端坐参禅すべきだというのである。端坐参禅は只管打坐と言い換えられる。只管打坐することで、さとりの境地に達するとともに、それを続けることで、さとりの境地を持続できるのである。

総論の最後は、次の文章で結ばれる。「いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらむや」。これは、さとりの境地のうえにあらゆる存在が成り立ち、自分自身の生き方としては真実と一体となることが肝要だ、という意味である。これはさらりとした言い方だが、道元の唯心論的な考えが反映された部分である。

以上、総論においては、悟りを得るためになすべきこと、また、悟りを得た境地の具体的なイメージが語られた、といえる。

二つ目の部分では、道元自身の修行について語られる。若くして栄西に師事したこと、宋に留学して天童の如浄の指導を得て、「一生参学の大事」を終えたということなどだ。「一生参学」とは、生涯修行にいそしむことを決意したということであって、悟りを開いたということではない。このように道元は、宋で得度したとは言っていないのであるが、しかし曹洞宗の教えを徹底的にたたきこまれたので、それをもとにさとりの見通しがついたし、また、衆生のために教える用意もできたというふうに考えていたようである。

三つ目の部分では、修行の正法としての只管打坐、およびその結果もたらされるさとりの境地としての心身脱落について語られる。この部分は次の文章で始まる。「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は最上のなかに最上なり。参見知識のはじめよりさらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」。「宗門の正伝」とは、曹洞宗の法統に代々直伝されてきた教えという意味。その具体的な内容は、焼香、礼拝、念仏、修懺、看経などを用いず、「ただし打坐して身心脱落することをえよ」というものである。「ただし」は道元の言葉の癖で、「ただ」と同義。ただひたすら打坐すべしというのである。打座は座禅のこと。座禅することで心身脱落できる。心身脱落とは、心身共にこの世への執着がなくなるという意味である。この世への執着を切ることで、さとり(真理)の世界に遊ぶことができるというわけである。

続いて、「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端座するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに諸仏如来をして本地の法楽をまし覚道の荘厳をあらたにす」という文章がある。「三業」は身口意のこと。要するに人間の行為をいう。その人間の行為のすべてにわたって、すべての存在が仏のしるしとなる。全世界がことごとくさとりの境地になる。それゆえ、諸仏如来は、仏としての本来のあり方を楽しみ、さとりの厳かさがます。

以上、三つの部分にわたって、さとりについての道元の総論的な考えが述べられた。以下、四つ目の部分では、個々の問答を通じて、さとりや修行についての各論が展開されることになるわけである。それについては、次稿にゆずりたい。





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