辯道話その二:正法眼蔵を読む

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辯道話の後半は問答集である。分量的には全体の三分の二以上を占める。仏教にはさまざまな教えがあるなかで、何故只管打坐を強く主張するのかということを中心にして、道元の主張に異議を唱えた相手に、道元がいちいち答えていくことを通じて、道元の思想の概略が説明されるという体裁になっている。それ以前での総論的な主張を、各論的に展開したものということができよう。

まず、次の問いから始まる。「いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん、仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや」。それに対して「しめしていはく、これ仏法の正門なるをもてなり」という答え。これは、仏教に多くの門(宗派)があるなかで何故座禅をすすめるのかという問いに対して、それが仏法の正門(正しい門)だからだと答えたもの。座禅つまり只管打坐こそ、仏教の正門だとここで宣言しているわけである。

次に、たたみかけるようにして、「なんぞひとり正門とする」と問い、それに対して、「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり」。つまり釈迦以来三世の諸仏はみな座禅からさとりを開いた。だから座禅が正門なのだというのである。

次に、「しかはあれども、読経念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん」という問いに対して、「なんぢいま諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乗を謗ずる人とす」と応じる。「大乗を謗ずる人」という言い方は最大級の批判である。その批判が、「読経 念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし」と言わせ、また、「口声をひまなくせる、春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし」とも言わせる。道元は、座禅以外のものを修行とは見なかったのである。

次に、「いまわが朝につたはれるところの法華宗、華厳教、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵につたへえて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙といふべし。 しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや」。これは、法華宗以下既存の仏教と比較して、なぜ座禅がすぐれているのかという問いである。それに対しては、「仏家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」と言ったうえで、「仏法を伝授することは、かならず証契の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲をひかんがごとし」と答える。仏法というのは、既存の権威によるのではなく、さとりを得た人を宗師とし、直接教えをうけるべきであるというのであるが、その教えの伝授は座禅を通じてなされるということなのだろう。

次に、「三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅も、そのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや」。「三学」とは戒・定・慧のこと、「六度」は布施・持戒・忍辱・精進・智慧・禅定のこと。これらはいずれも仏法修行において大事なこととされてきたが、そのうちの座禅だけをなぜ特別に重視するのかという問いである。それに対しては、「これは仏法の全道なり、ならべていふべきものなし」と答える。座禅だけが仏法修行の全道だというのである。

次に、「仏家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禅定をすすめて証入をいふや」。「四儀」とは、行・住・座・臥のこと。人間のふるまい方をいう。そのふるまい方のうち、何故座することのみを重視するのかという問い。それに対しては、祖師の言葉として「坐禅はすなはち安楽の法門なり」と言い、「四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり」と答えている。座禅は安楽の法門であり、かつ諸仏諸祖も実践してきたことだというのである。

次に、「この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは、坐禅辨道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん」。これは、まださとりを得ていない人が座禅してそれを得るというのはわかるが、すでにさとりを得た人には、座禅は必要ないのでは、という趣旨。それに対して、「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり」と答える。これは、修行とさとりとを別のものと考えるのは外道である、修行とさとりとは一体のものである、という趣旨。修行なしではさとりはえられず、さとりは修行をさらに求めるという趣旨である。さとりを得た後にも、座禅を続けるべきだと言っているわけである。

次に、「わが朝の先代に、教をひろめし諸師、ともにこれ入唐伝法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、ただ教をのみつたへし」。これは天台以下の先人の教えになぜ座禅のみを重視する考えがなかったのかという趣旨。それに対しては、「時節のいまだいたらざりしゆゑなり」と答える。その時期が熟していなかったからだというのだが、仏教は本来時節を超越したものであるはずだから、こういう言い方は適当ではないように思える。これに関連して、「かの上代の師、この法を会得せりや」という問いに対して、「会せば通じてむ」と答えている。座禅の法を会得していれば、普及していただろうと言って、先師たちが座禅を会得していなかったことを指摘する。

次に、「この身体は、すでに生あればかならず滅にうつされゆくことありとも、
この心性はあへて滅することなし」という心性常住の説を述べたうえで、それを踏まえ、「心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん」と問わる。それに対して、「いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼外道が見なり」と言ったうえで、「仏法には、もとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず」と答える。身体と心とは一体不可分のもので、性相不二だというのある。性はものごとの本質、相はその具体的な現れのことをいう。そのうえで、「この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや」と断言する。生死は此土にかかわり、涅槃は彼土にかかわる。その両者は別々のものではないという思想が表明されている部分である。





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