吉田松陰と尊王攘夷:加藤周一「日本文学史序説」

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吉田松陰といえば、明治維新の指導原理としての尊王攘夷のイデオローグであり、また、日本の行方を憂えた英雄的な指導者というイメージが支配的になっている。それにはおそらく、彼の弟子たちが、自分らの権威を高揚する意味で、師匠の松陰を神格化したという事情も働いたのであろう。もし長州藩が権力を握ることに失敗していたならば、松陰はただのテロリストとして、歴史の表舞台からは排除されていたであろう。

そんな吉田松陰を加藤周一は、基本的には詩人だったという。たしかに松陰は、多くの詩を書き残しており、それらを読むと、悲憤慷慨型ではあるが、詩人としての熱気が伝わってくる。その熱気が彼の弟子たちに伝播して、明治維新の成功に導いた。そのことを加藤は、「政治家に理想を~もし理想があったとしたら~吹き込んだのは、詩人であって、その逆ではない」と言っている。加藤はまた、「日本人は『イデオロギー』の名のもとに死を冒すことがあるが、『イデオロギー』のために死ぬことは、めったにない」。その「めったにない」ケースが、吉田松陰だというわけである。

吉田松陰の掲げた「イデオロギー」は、尊王攘夷である。攘夷の感情は、幕末の日本人に共通したものであったので、別に松陰の専売特許ではない。松陰が維新史に大きな意味をもつとしたら、それは尊王を掲げて幕府の打倒を叫んだことだった。松陰の倒幕思想が、かれの弟子たちに内面化され、その弟子たちを通じて、日本の政治体制の大転換につながった。

尊王の思想は、水戸学や国学の一部にもあった。水戸学の尊王思想は、徳川時代の初期にまでさかのぼることができる。しかし、水戸学や国学の尊王思想は、倒幕とは結びつかなかった。せいぜい公武合体というかたちで、朝廷にも統治へのかかわりを認めたという程度だった。ところが松陰にとって、尊王は即倒幕を意味した。徳川幕府を倒して天皇を中心とした新しい国家を作らねば、日本は欧米列強の圧力を前にして、亡びてしまうだろうという危機感が、松陰にはあったのである。

松陰が徳川を憎んだわけは、藩閥意識が働いたからだといえなくもないが、それ以上に、徳川政権下の既得権益の体制では、欧米の圧力を前に、日本全体が団結できないという思いが強かったからだといえる。

松陰の尊王倒幕思想には一貫したところがある。それに比べてかれの攘夷思想は、そう一貫してはいない。かれが政治的に失脚するきっかけになったのは、浦賀沖に現れたペリーの軍艦に同船して、アメリカに渡ろうとした事件である。この事件には、松陰の師である佐久間象山もかかわっていた。象山はその責任をとらされて、国元蟄居を命じられたのである。松陰がアメリカ行きを考えたのは、敵の実力を知るためである。敵を知らずして、敵に勝つことなど出来ようもない。松陰は、軍学者としてキャリアを始めたのであるから、そのくらいの理屈はよくわかっていたのである。

だから、松陰が、本音では開国やむをえないと考えていただろうことは、指摘できる。彼の弟子たちが後に開国に傾いていったのは、西洋の艦隊にみじめな敗北を喫したということもあったが、それ以上に、師匠の松陰から、開国せずんば強国は実現せず、と吹き込まれていたことがあると思う。

松陰の画期的なことは、徳川時代の身分秩序にこだわらないという点であった。松陰自身は、下級武士の出身であり、身分秩序の中では、ほとんど存在価値をもたなかった。だから、自分はそうした身分秩序意識から自由でありえた。その点は、福沢諭吉と同様である。福沢諭吉は、「封建門閥は親の仇でござる」と言って、徳川身分秩序を攻撃したのであったが、松陰の場合には、もっと功利的な動機からそれを攻撃したのであった。当時の支配層の武士には、外国の武力を跳ね返すだけの器量がなかった。もし上位の武士に器量がないならば、下級武士がそれを担うべきである。下級武士にもそれが出来ないのであれば、「之れを徒士・足軽に取り、之れを農工商賈に取るも、不可あることなし」というのである。

つまり、能力あるものが日本の未来を担うべきであって、身分秩序では日本は守れないというのである。そうした松陰の考えは、弟子の高杉晋作によって、奇兵隊の創設という形で実現したし、明治政府の徴兵制度へと発展していった。そういう流れの中で松陰の果たした役割には、大きな意義があったといえよう。

このことを加藤は、「封建的身分制の打破であり、松陰の『分』を超えた言論と活動そのものが、徹底した身分制打破の人格化にほかならなかった」と言って、松陰を称賛している。それは松陰が、なににもまして詩人の気質をもっていたからだというのが、加藤の見立てである。






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