岸田首相の「核なき世界」の自家撞着

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雑誌「世界」の最新号(2023年5月号)に、ノーベル賞を受賞したジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチへのインタビュー記事が載っている。「『人間らしさ』を諦めないために」と題されたそのインタビューの中で、アレクシェーヴィチは、今回のウクライナ戦争について、西側の「ウクライナへの武器提供は。戦争を止めるためには止むをえないと思う」と言い、ウクライナの徹底抗戦とそれへの西側の武器提供を擁護している。そこには、彼女の半分ウクライナ人としての民族感情が働いていると思うのだが、それとは別に、彼女が原発について語っていることが、小生には余程理性的なように見えた。彼女は、「原発は潜在的な核爆弾なのです」といって、人類が核の脅威から抜け出すためには、原発も廃止しなければならない、と主張しているのである。その主張に小生は理性的に考えられた道筋を見るのである。

彼女は、原発が潜在的な核爆弾だということを、政治家たちはきちんと理解するべきだというのであるが、それを理解できない政治家のほうが、理解できる政治家よりも多いというのが現実である。日本の岸田首相もそのことを理解できないでいる政治家の一人だ。自民党がこれまでしてきたことをひっくり返すようにして、岸田首相が原発回帰へと大きく舵を切り替えたことはよく知られている。それでいながら岸田首相は、「核なき世界の実現」などと、ことあるごとに繰り返している。今回のG7の場においても、ホストの立場を利用して、その主張を臆面もなく繰り返す始末である。

これは、アレクシェーヴィチに言わせれば、自家撞着以外の何ものではないのだろうが、岸田本人の頭の中では、矛盾なく共存できるものらしい。それには、核についての考え方に根本的な相違がある。岸田は、核兵器と原発とはまったく異なった核の利用であって、両者は切り離して扱うべきだと考えているのに対して、アレクシェーヴィチは、核兵器も原発も核の利用ということでは相違はなく、したがって両者を分けて考えるのはナンセンスだと言っているわけである。

原発が安全なものでないことは、今回のウクライナ戦争における原発への攻撃騒ぎで明らかになったことだし、福島やチェルノーブィリは原発事故の破滅的な影響を、人類に思い知らせたたずだ。にもかかわらず岸田首相は、日本が唯一の被爆国であり、甚大な原発災害を経験した国であるにもかかわらず、原発回帰に前のめりになっている。そんな姿勢をどう形容したらいいのか。理性があまり意味を持たないこの国においては、そもそも考えるということ自体が意味をなさないのかもしれない。




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