見えない貧困

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岩波の雑誌「世界」の最新号(2023年5月号)が「見えない貧困」と題したサブ特集を組んでいる。そこで「見えない貧困」の定義が問題となるが、これについては、宮本太郎の「分断社会の『見えない貧困』」という論文が次のように書いている。「困窮の広がりに制度も政治も反応せず、貧困が可視化されない」という事態が生じている、と。そうした可視化されない貧困を「見えない貧困」というらしい。

宮本によれば、「見えない貧困」は社会の一層の分断がもたらしたものだ。分断が進んで、大勢の国民が両極に分化した。その中で、従来からある最貧困層に近いような新たな貧困層が大量に出現したが、そうした人々は生活保護をはじめとした既成のセーフティネットからもれるケースが多い。当事者自身が受給申請の決断をためらうのと、自助と自己責任ばかりが強調される風潮が、その人たちを救済の網からはじき出してしまうというのである。

そういう層を宮本は「新しい生活困難層」と呼んで、かれらが「見えない貧困」を背負わされている当事者だと指摘している。その人たちには公的な制度が適用されることがほとんどないので、生活保護受給者より厳しい生活を強いられている場合が多い。その悪影響は、とくに子供に及び、日本社会の健全な基盤をむしばんでいるというのが、宮本の見立てである。子供が悲惨な状態で放置されているような社会は、明るい未来を期待することなどできない。

「見えない貧困」のもっとも悲惨な犠牲者は「中高年シングル女性」だと、この特集は位置づけている。そこで、その貧困問題の当時者である女性たち数人による座談会を企画し、その記録を載せている。「透明にされた『中高年シングル女性』の困難」と題したこの座談会(和田静香、大矢さよ子、植野ルナ、金涼子)は、多面的な視点から、現在中高年シングル女性が置かれている困難な状況について点検している。

今の日本社会においては、シングルの女性はおしなべて厳しい現実にさらされている。同じシングルの女性でも、子供を抱えた女性には制度の手が差し伸べられる場合があるが、子供のいないシングルの女性には一切そうした援助の手は伸びてこない。それについて大矢さよ子は、「子供を産める年齢の女性と子育て中の女性だけに価値があるかのようで、単身女性、特に将来子供を産む可能性の低い中高年女性は隅に追いやられており、支援のセーフティネットからもこぼれ落ちてしまっています」と言って慨嘆している。たしかに今の日本社会には、そうしたいやな風潮がはびこっているといえる。

その大矢に和田静香が同調して、「中高年シングル女性は、あらゆる支援の手から落ちこぼれてしまう。大矢さんが言うように、子どもがいても、成人してしまえば、子育て支援も簡単に切られる。社会の中で透明な存在にさせられ、当事者は困難を自らのうちに抱え込んでしまうのです」と言っている。

植野静香は、中高年シングル女性の気持を代弁して、「社会の中で自分のような存在はないものとして扱われている、所属がないように感じる」という当事者たちの言葉を紹介しているし、金涼子は、「女性が自分でお金をかけて、自分のことを守らないといけない社会なんだなという事実が見えてきて、つらいものがあります」と言っている。そして最後にダメ押しをするように和田が、「私たちシングルは死ぬこともむつかしい」と言うのである。死ぬこともまたむつかしい社会とは、どんな社会なのか。

なお、宮本は、「見えない貧困」対策としていくつかの提言を行っている。その中でベーシック・インカムにも意義をみとめているのだが、これはよほど注意しないと弱者切り捨てに結びつきかねない。いま議論されているところを聞くと、ベーシック・インカムを全国民に保証するかわりに、それでセーフティ・ネットをすべて代表させ、現行の社会保障制度は廃止してしまおうという意図がありありと窺える。もっとも熱心な唱道者は新自由主義を標榜する某人物であるが、かれがこの制度をたたえているのは、その導入と引き換えに、公的な社会保障制度を全部廃止したいと考えているからにほかならない。公的制度を廃止して民間に同じような趣旨の制度をやらせるようにすれば、自分にビジネスチャンスが回ってくると考えているのだろう。





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