辯道話その三:正法眼蔵を読む

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辯道話のうち、問答の部分の続き。「とうていはく。この坐禅をもはらせん人、かならず戒律を厳浄すべしや」。この問いに対しては、「持戒梵行は、すなはち禅門の規矩なり、仏祖の家風なり。いまだ戒をうけず、又戒をやぶれるもの、その分なきにあらず」と答える。持戒梵行はなすべきことだが、戒をうけず、又戒をやぶったものでも、座禅をする資格がないわけではない、という。

次に、「この坐禅をつとめん人、さらに真言止観の行をかね修せん、さまたげあるべからずや」という問いに対しては、「一事をこととせざれば一智に達することなし」と答え、座禅に専念すべきだという。

次に、「この行は、在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか」という問いに対しては、「仏法を会すること、男女貴賤をえらぶべからずときこゆ」と答え、仏法を会得するのに男女貴賤の差別はないとする。

次に、「出家人は、諸縁すみやかにはなれて、坐禅弁道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して、無為の仏道にかなはん」との問いに対しては、次のように答える。すなわち、世俗のものの仏法修行の例についてあげたあと、「これは、官務にひまなかりし身なれども、仏道にこころざしふかければ得道せるなり。他をもてわれをかへりみ、むかしをもていまをかがみるべし」という。つまり、どんなに世俗の務めが忙しい人でも、さとりを得ることはできるというのである。それゆえ、「世務の仏法をさまたげざる、おのづからしられたり」ということになる。

次に、「この行は、いま末代悪世にも、修行せば証をうべしや」。末代悪世においても、修行すればさとりを得られるか、という問いである。これに対しては、「大乗実教には、正像末法をわくことなし、修すればみな得道す」と答える。どんな世においても、修行すればさとりを得られるというのである。

次に、「あるがいはく、仏法には、即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円とす。このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず、いはんや坐禅辨道をわづらはしくせんや」。これは、仏法には、即心是仏(心がすなわち仏である)ということを了達(完全に理解)すれば、経典を誦したり身に仏道を行じなくても、仏法にかけることはない。仏法は自己にそなわっていると知れば、それが円満なさとりである。これを他人にもとめるべきではない。いわんや座禅弁道をわずらわしくする必要があるのか、という問いである。これに対しては、「仏法は、まさに自他の見をやめて学するなり。もし自己即仏としるをもて得道とせば、釈尊むかし化道にわづらはじ」と答え、さらに、則公監院と法眼禅師の問答を引き合いに出して、「あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて、仏法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辨道して、一知半解を心にとどむることなかれ」という。つまり自己即仏などということに安住していないで、ひたすら座禅修行すべきだというのである。

次に、「乾唐の古今をきくに、あるいはたけのこゑをききて道をさとり、あるいははなのいろをみてこころをあきらむるものあり。いはんや、釈迦大師は、明星をみしとき道を証し、阿難尊者は、刹竿のたふれしところに法をあきらめし。のみならず、六代よりのち、五家のあひだに、一言半句のしたに心地をあきらむるものおほし。かれらかならずしも、かつて坐禅辨道せるもののみならんや」。これは、釈迦を含め、座禅以外のことでさとりを得た人がいることを理由に、座禅の意義に疑問を投げかける問いであるが、これに対しては、「古今に見色明心し、聞声悟道せし当人、ともに辨道に擬議量なく、直下に第二人なきことをしるべし」と答える。形や音によってさとりを開いたという人は、弁道について考えることなく、自分以外なにものもないのである、というのである。

次に、「西天および神丹国は、人もとより質直なり。中華のしからしむるによりて、仏法を教化するに、いとはやく会入す。我朝は、むかしより人に仁智すくなくして、正種つもりがたし。蛮夷のしからしむる、うらみざらんや。又このくにの出家人は、大国の在家人にもおとれり。挙世おろかにして、心量狭小なり。ふかく有為の功を執して、事相の善をこのむ。かくのごとくのやから、たとひ坐禅すといふとも、たちまちに仏法を証得せんや」。これは、日本人は野蛮であるから、座禅をしても仏法を会得することはできないのではないか、という問いである。これに対しては、「人またかならずしも利智聡明のみあらんや。しかあれども、如来の正法、もとより不思議の大功徳力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。わが朝は、仁智のくににあらず、人に知解おろかなりとして、仏法を会すべからずとおもふことなかれ」と答える。利智聡明でなくとも、如来の教えは不思議の大功徳力をそなえているのであるから、それを信じて修行すれば、仏法を会得することができるというのである。

以上で、問答は終わる。それを踏まえて、仏法修行の意義が改めて語られる。いわく、「いづれのところか仏国土にあらざらん。このゆゑに、仏祖の道を流通せん、かならずしもところをえらび、縁をまつべきにあらず」。ところとして仏国土でないところはないのだから、仏祖の道を流通するについては、場所や縁をまたずに、すぐに実践すべきである。実践が座禅を意味するのはいうまでもない。






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