中江兆民と自由民権:加藤周一「日本文学史序説」

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加藤周一は中江兆民を、福沢諭吉と比較しながら論じている。この二人には共通点があり、また、著しい相違点もあるので、比較するには格好の材料なのであろう。まず、共通点。二人とも日本人としていち早く外国体験をし、その体験にもとづいて、「西洋近代の政治的社会的価値を、文化の相違を超えて普遍的なものとみなし、その立場から日本社会の具体的な問題に接近して生涯を通じ後退しなかったことだろう」と加藤は言う。

福沢は、明治維新前後に三度西洋にわたり、中江は岩倉使節団に同行して西洋体験をした。福沢はおもに英米圏の文化から影響を受け、中江はフランス文化から影響を受けた。福沢の功利主義的傾向や、中江の理想主義的傾向は、かれらが影響を受けた国の文化を反映しているといえる。二人はそれぞれの背景から、近代日本のめざすべき方向について意見を述べた。その意見を福沢は、自分が創刊した「時事新報」を舞台に行い、中江は「東洋自由新聞」以下、多くの新聞を舞台に行った。

このように、西洋文化の内面化とか、ジャーナリスティックな活動という点で、二人は共通するのであるが、すくなくとも二つの点で全く異なっていたと加藤は言う。一つは、伝統的文化に対する態度であり、もう一つは、明治政府の権力に対する態度である。

伝統文化に対する福沢の態度は徹底的に否定的であり、全面的な西洋化を主張した。それに対して中江は、洋学を中心としながらも、漢学も並行して教えるなど、伝統文化への配慮というか、未練のようなものを持っていた。かれが、東京外国語学校の校長を辞任した理由は、漢学教育の推進を主張したことを、文部省に否定されたことであった。兆民は、漢学のみならず、浄瑠璃などの伝統的民衆文化にも強い愛着を感じていた。

明治政府の権力に対する態度は、兆民のほうがはるかに徹底して批判的であったと加藤は言う。福沢には富国強兵的な考えがあって、そこから国権主義を容認するような態度をとったのだったが、兆民は、国権対民権の対立については、徹底的に民権の立場にたって、国権を攻撃した。兆民ほど明治の自由民権を徹底的に体現した者はなかったのである。福沢も自由と独立を語ったが、それは国家あっての自由であり独立であるという考えと裏腹であった。福沢の「一身独立して一国独立す」は、その逆もまた言えることなのであった。それに対して兆民は、自由と民権は国家を超越した普遍的・絶対的価値だと主張した。そこには、ルソーはじめフランス啓蒙思想の影響が指摘されよう。

そんなわけであるから、兆民が権力から憎まれるのは仕方がない。一方福沢のほうは、権力とほどほどの関係を保った。そんなわけで、福沢門下からは小泉信三が出現し、兆民門下からは幸徳秋水が出現する、と言うのである。

自由民権を攻撃するものへの兆民の反撃ぶりを、加藤は兆民の次のような文章を引用しながら語っている。兆民は、自由民権運動が、運動としては衰えてしまったあとでも、それを擁護してやまず、次のように書いたのである。「吾人がかく云へば、世の通人的政治家は、必ず得々として言はん、其れは十五年以前の陳腐なる民権論なりと。欧米強国には、盛んに帝国主義の行はれつつある今日、猶民権論を担ぎだすとは、世界の風潮に通ぜざる、流行遅れの理論なりと、然り是れ民権論なり・・・欧米の民権は、行はれたるが為に理論として陳腐なり、我国の民権は、行はれずして而も且言論として陳腐となれるは、果て何を意味するか」。

こういう議論を聞くと、近時この国の支配勢力の代表者が、立憲主義は過去のものなり、いまや国権主義の時代なり、と叫んだことが思いだされる。

兆民にとって自由民権は、国境を超える普遍的価値であり、国内的には、階級を超えた価値であった。階級を超えた自由平等を、兆民ほど声高らかに主張したものはない。かれは、人間の平等に基づいて非差別部落の解放にもコミットした。自身部落民の出身だといったこともあるが、それははったりであるにしても、この問題に世の注意を喚起することには役立った。

兆民のもっとも有名な著作「三酔人経綸問答」は、左右に極端な人たちと、それを仲立ちする人が出てきて、時勢を論じるという体裁をとっているが、その議論を加藤は、様々な政治的意見を相対化する一方で、基本的な価値としての自由平等と民権については、それを相対化せずに、あらゆる議論の前提としたと言っている。その点で画期的だというのである。

加藤は最後に兆民の遺書というべき「一年有半」を取り上げ、兆民の世俗的世界観に言及している。世俗的・此岸的世界観は、兆民に特有のものではなく、日本人の土着思想の根底にあるものだが、兆民の場合にはそれを原理化し、己の死に臨んでもそれを生き抜く決意をしたことに、かれのこだわりが見られるという。

世俗的世界観は、福沢にも指摘できる。ふたりとも、世俗的・此岸的な世界観からはみ出ず、従って西洋の神のようなものを信用しなかった。かれらが信用したのは、己の中に息づいている日本の土着的な感覚だったというのである。その土着的・世俗的な世界観が、福沢の場合には功利主義的態度をとらせ、兆民の場合にはある種の理想主義と結びついたというわけである。

なお、兆民は土佐の出身であり、同じ土佐人で自由民権運動の主唱者板垣退助とは、因縁の間柄にあったが、加藤はこの二人の関係については触れていない。板垣の自由民権には、権力闘争の匂いがするので、兆民のそれとはかなり肌合いが違う。板垣の自由民権は、右翼の運動と結びつく面があるが、兆民の自由民権は、右翼とは全くかかわりがない。






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