現成公案:正法眼蔵を読む

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「正法眼蔵」七十五巻本の冒頭を飾るのは「現成公案」である。この七十五巻本は、現行の岩波文庫に採用されているものだ。道元自身の編集意図が働いているといわれているから、道元はこれ(この巻)を、正法眼蔵全体の序文のようなものと位置づけていたと思われる。巻末の奥書には、「天福元年(1233)中秋」に書いたと記されており、その年道元満三十三歳であって、「辯道話」を書いてから二年後のこと、正法眼蔵のなかにおいて最も早く書かれたものでもあるから、冒頭に置かれるにふさわしいといえよう。その内容は、道元が天童の師匠如浄の教えに導かれて、心身脱落したさまを記したものだ。心身脱落はさとりの境地をあらわす言葉だから、道元は自らのさとりを記すことから、正法眼蔵の執筆を始めたわけである。道元は、その二年前に書いた「辯道話」では、みずからのさとり自体については、表立って触れていない。この「現成公案」においてはじめて、それに触れたのである。

「現成公案」という言葉の、「現成」は現実に成就するとか実現するとかいう意味であり、「公案」は究極的あるいは絶対的な真理という意味である。「公案」には禅坊主の修行の方法としての仏教的な問題を課すという意味もあるが、道元自身は、究極の真理という意味合いで使っている。だから、「現成公案」とは、現実に成就した真理、あるいは真理の実現というような意味である。その真理とは、仏法のことであり、仏の究極の教えとしてのさとりのことでもある。だから「現成公案」にはさとりの実現という意味もある。

テクストには、かなり難解な表現があって、かならずしも読みやすくはない。その読みにくさは、おそらく道元の思想そのものの難解さがからんでいるのだと思われる。この「現成公案」は正法眼蔵の諸巻のなかでもとりわけ重要視されているので、禅坊主はじめ様々な人々の現代語訳があるが、それらを読むと、人によってまったく異なった解釈がされていたりして、一筋縄ではいかないという印象を強く受ける。それほどの難物なのだが、虚心に読んでいるうちに、なんとかわかったような気にもなるのである。とにかく、テクストにそって、丁寧に読み解いていきたい。テクストはまず、次のような文から始まる。

 諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、佛あり、衆生あり。

これは、諸法が仏法である時節には、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、佛あり、衆生あり、という風に読める。構文自体はいたって単純だ。そこでこの文を正しく理解するためには、諸法という言葉と仏法という言葉をどう捉えるかが問題となる。諸法とは、仏教用語では、すべての存在者という意味である。哲学的にいうと、世界とか宇宙の全体ということになろう。一方、仏法とは、仏の真理というような意味であり、砕いていうと、究極的な真理ということになる。そこで、この文章の意味は、すべての存在者が究極の真理と一致しているような、そういう時節には、修行あり、生あり、死あり、佛あり、衆生あり、ということになりそうである。こう言われても、わかったような、わからないような気分は抜けない。諸法が仏法である状態というのは或る意味理想の状態のはずであり、したがって迷悟以下のことは問題にならないと考えるのが筋ではないか。仏法が実現してもなお、迷悟以下がそのまま存在しているというのは、逆説的に聞こえるのである。そこで評者のなかには、これは道元得意の逆接用法であって、仏法が実現しているから迷悟あり、と読むべきではなく、その逆に、仏法が実現しているにもかかわらず迷悟あり、と読むべきだとする主張もあるが、それだと文の意味がますますわからなくなる。このように、冒頭から難渋な文に直面して面食らうのであるが、とりあえず次に進む。

 萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、佛なく衆生なく、生なく滅なし。

これは、ややわかりやすい。萬法とは、これもまたすべての存在者という意味で、諸法ということばと基本的には変わらない。その萬法がわれにあらざるというのであるが、ここで「われ」とあるのは、自己とか自性というような意味であり、哲学的にいうと、実体というようなものである。だから「萬法ともにわれにあらざる時節」とは、すべてのものには実体がなく、したがって空であるような、そうした時節という意味である。そうした時節には、「まどひなくさとりなく、佛なく衆生なく、生なく滅なし」、ということになる。これは般若心経の空の思想と同じようなものを、道元もまた述べているのだと考えられる。続いて、次の文が来る。

 佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。

ここで「佛道」という言葉が出てくる。これを仏への道と読むものがいるが、「道」は普通の意味での道をさすのではなく、仏の言葉あるいは教えというふうに捉えた方がよいと思う。その仏の教えは、「豐儉より跳出」している。「豐儉」とは有無というような意味である。つまり仏の教えは、有とか無を超越しているというのである。「ゆゑに」つまり、だから、生滅あり、迷悟あり、生佛あり、となる。これは、最初の「諸法」以下の文と同じようなことを言っているように聞こえる。だが微妙な違いがある。最初の文では、存在そのものが迷悟以下に満ちていると言っているのに、ここ三番目の文では、仏の教えは有無を超越しているから「消滅あり」以下なのだと言っているわけだ。どちらにしても、存在にとらわれている限り、迷悟以下は避けられず、存在を空として見るときにはじめて、「まどひ」以下がなくなると言っているのではないか。次に、この三つの文を踏まえる形で、次の文が続く。

 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

存在の空しさはかくの如しではあるが、にもかかわらず、「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふる」という。その意義は、存在は空しいものだが、しかし厳としてそこにあると言いたいのであろう。以上から、次の文が、締めくくりのようにして出てくる。

 自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
 身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。

この文章は比較的わかりやすい。自己にこだわりながら(自己を中心にして)萬法を修證するのは迷である、萬法によって自己を修證するのがさとりというべきである。自己にこだわってはいけない。仏は自己にこだわるという迷いを悟り、衆生はそれをさとらずに大いに迷う。世の中には、悟ったうえでなおさとりを重ねるものもいれば、迷いに迷うものもいる。仏が本物の仏である間は、自分を仏と思ったりはしない。

単に心身をもって形を見たり音を聞いたりしても、それは真に見たり聞いたりしていることにはならず、鏡に影が映っているようなわけにはいかない、水に月が映っているようにはいかない、水を見ているときには月を忘却し、月を見ているときには水を忘却するようなことになる。






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