現成公案その二心身脱落:正法眼蔵を読む

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現成公案の巻の主要テーマは「心身脱落」である。それがいかなるものかについて、次の文章(第七節以下)が簡略に示している。

 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

仏道を習うというのは自分自身を習うということである。自分自身を習うということは、自分自身を忘れることである。自分自身を忘れるというのは、自分を中心とするのではなく、万法によって証せられるというのである。万法に証せられるというのは、自分自身及び他人の心身をして脱落せしむることである。しかして得たさとりの境地に安住し、安住したそのさとりの境地をいつまでも持続させるのが肝心である。

この心身脱落については、道元がその師天童如浄から得た言葉がヒントになったと、「宝慶記」という書物に記されている。如浄は「心身脱落」を、「心身脱落とは座禅なり、只管打坐のとき、五欲を離れ五蓋を除くなり」といったという。

 人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。

ここはちょっとわかりづらいが、次のように現代語訳する。人が初めて法(存在)を求めるとき、すでに法(存在)から離れているのである。(このように存在を求めるのは空しいのであるが)その法(存在)が自分自身に正伝しているとき、本来の人間の姿になるのである。

存在が空しいというのは、存在には自性がないということである。自性がないというのは、空であるということだ。だから、この部分は空の思想を簡略にのべたものと考えることができる。

 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

これは、自己中心の考えにとらわれることの愚かさを指摘したもの。次のように現代語訳する。人が船に乗っていくとき、目を岸辺に向けていれば岸が動いているように見誤る。目を船のほうにもどせば、船が進んでいくように見える。これは心身が乱れた状態で対象を見るからであり、自分の心性が常住不変だと錯覚しているのである。自身の行状をしたしく見つめれば、万法(自己を含めたすべての存在者)には、自性がないということがわかるはずである。

 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

これは比較的わかりやすい文章。存在するものの不生不滅について論じたもので、次のように現代語訳する。薪は(燃えて)灰となり、薪に戻ることはない。といっても、灰は後で、薪は先とみるべきではない。しるべし、薪はそのまま薪という存在なのであり、薪として先後があり、前後があるが、その前後は断絶していていまがあるだけである。(同じように)灰は灰としての存在であり、そのまま先後がある。薪が灰となって薪には戻らぬように、人は死んだら生とはならない。それを生が死になるといわないのは、仏法のならいである。だから不生というのである。死んだら生にならないのは法輪の真理である。だから不滅という。生も死も、それぞれ一つの存在の在り方である。たとえば、冬と春の如きである。冬が春になるとは思わず、春が夏になるとも言わない。

以上で言いたかったことは、死にせよ生にせよ、単なる抽象的な観念であり、その観念は、それ自体には実体性を持たないということである。実体性がない単なる観念をもてあそんでも、何らの結果も生じない。観念の上では、生も死もそれ自体が完結しており、相互にかかわりあうことはない。季節についても、それを抽象的な観念として捉える限り、たとえば冬と春との間には、なんら意味のある関連はない。そういうことを言っているのだと思うが、それもまた、空の思想なのであろう。

だが、この文章はなかなか迫力を感じさせる。それは生死の問題をさらりとした言葉で言いきっているからであろう。






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