幸徳秋水と社会主義:加藤周一「日本文学史」

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幸徳秋水は中江兆民の弟子であり、兆民の自由民権を受け継ぐ形でキャリアを開始した。最初の頃は、フランス流の啓蒙思想を主張していたが、次第に社会主義思想を抱くようになり、最後には無政府主義者になった。幸徳秋水が権力ににらまれて殺されたのは、過激な直接行動主義的な無政府主義のためだった。当時の政府権力は、国家の改造を目的とする社会主義よりも、国家そのものの廃絶を目指す無政府主義のほうを脅威と感じたらしい。その幸徳秋水について、加藤周一は主にその社会主義思想について論じている。

加藤は、日露戦争以前の幸徳秋水の社会主義思想を、堺利彦らのキリスト教社会主義に似たものとしたうえで、その共通点を三つあげている。一つは、すぐれて倫理的な点である。かれは社会主義を、「自由・平等・博愛」といった倫理的な目的を実現するための手段と位置付けた。その点では、師匠兆民の思想を受け継いだといえるだろう。第二は、合法主義(議会主義」である。かれの主著「社会主義神髄」は、合法的な議会活動を通して社会の改造を図ろうというものであり、その議会に人民の意思を反映させるため普通選挙の実現を叫んだ。第三は、平和主義である。かれは徹底平和の立場から日露戦争に反対した。日露戦争への反対を表明したものとしては、内村鑑三や木下尚江らのキリスト者があったが、幸徳秋水は非キリスト者として戦争に反対した。その当時の秋水はすでにマルクスを読んでおり、戦争を支配階級の都合によるものと喝破する視点も持っていた。堺利彦もまた、マルクス主義に近づいていたので、社会主義はキリスト教よりマルクス主義に親縁性があるのかもしれない。

幸徳秋水が無政府主義に傾いたのは、日露戦争後の1905年にアメリカにわたり、「社会革命党」の人々と接触して以来である。かれはアメリカから帰ると、「日刊平民新聞」紙上に「余が思想の変化」という一文を寄稿し、「彼の普通選挙や議会政策では真髄の社会的革命を成遂げることは到底できぬ。社会主義の目的を達成するには、一に団結せる労働者の直接行動に依るの外はない」と書いた。その後彼は、クロポトキンと文通するなど、無政府主義に突き進んでいった。その秋水を、権力は長く生かしておかなかった。

幸徳秋水が大逆事件に連座して逮捕されたのは1910年6月1日、翌年1月18日に死刑判決を受け、同月24日に、ほかの死刑囚11人とともに処刑された。この事件は、一部の過激分子が計画したものだが、それに秋水はかかわっていなかったことが明らかになっており、また事件当時にも秋水を憎むものが機に乗じて秋水抹殺を図ったと受け取る者があった。河上肇はその一人であり、権力によるフレームアップであることを匂わせる文章「日本独特の国家主義」を、秋水らの処刑後三週間後に書き上げた。

その文章の中で河上は、日本国家が無政府主義者を生かしておかないのは、西洋諸国の場合のようにその暴力を恐れるからではなく、その主義主張、すなわち国家の破壊を憎むからである。日本の国家権力(それを河上は単に「日本人」と呼んでいるのだが)にとっての至上の価値は国家そのものなのであって、それを否定・破壊せんとする主張は万死に値するのである。

大逆事件をフレームアップしたのは、当時大審院次席判事で、後に首相に上り詰める平沼騏一郎である。平沼は、ごく少数のものによる天皇暗殺計画をかぎつけたとし、それに便乗して、幸徳ら日頃眼をつけていた無政府主義者たちを検挙の上、死刑判決に導いた。フレームアップの主導者といってよい。その平沼を昭和天皇が毛嫌いしていたことは、よく知られている(「昭和天皇独白録」などによって)。けだしその人格にいかがわしさを感じたのであろう。

なお幸徳秋水は死刑を待つ獄中において、最後の著作「基督抹殺論」を書いた。かれは基督に日本の天皇のイメージを重ね、その抹殺を主張したのである。いかにも国家権力の破壊者にふさわしいことと言えよう。






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