歴史其儘と歴史離れ:森鴎外の創作姿勢

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森鴎外が小文「歴史其儘と歴史離れ」を書いたのは大正三年の暮れの頃のことで、翌年1月1日発行の雑誌「心の花」に掲載された。時期的には「山椒大夫」の執筆直後だったようで、本文のなかで、「山椒大夫」の執筆の経緯や、どういう創作姿勢で臨んだかについて書いている。つまり「山椒大夫」をサンプルにとって、鴎外が自己の創作姿勢について語ったものといえる。

「わたしの近頃書いた、歴史上の人物を取り扱った作品は、小説だとか、小説でないとか云って、友人間にも議論がある」という書き出しではじまるように、これは鴎外が晩年、「興津弥五右衛門の遺書」を書いたのをきっかけに、一連の歴史小説を書いたことを踏まえ、あくまでもそうした小説の類を書くにあたって、自分がどのような姿勢で臨んだかについて語ったものである。したがって、初期の作品は一応考慮の外においている。

鴎外が「歴史上の人物を取り扱った作品」と呼んでいるものを、ここでは「歴史小説」と呼んでおく。その歴史小説を書くについて鴎外がこだわったのは、あくまでも事実を尊重し、そこから逸脱しないようつとめるということだった。鴎外自身、たとえば「日蓮上人辻説法」のなかで、ずっと後の時代に書かれた「立正安国論」を「辻説法」の時代に「畳みこむ」ような脚色をしたことがあった。そういう事実からの逸脱を鴎外は、「近頃の」歴史小説においては、全く斥けていたというのである。

そうした態度あるいは姿勢をとるようになった動機は二つあると鴎外は言う。一つは、「史料を調べてみて、其中に窺われる『自然』を尊重する念を発した」こと。もう一つは、「現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好いはずだと思った」ということである。後者はおそらく私小説の流行を念頭に置いているのであろう。鴎外は私小説とは対極の創作姿勢に立ってきたはずで、晩年歴史小説を書くにあたって、私小説の方法を採用したというのは、なかなか考えにくい。もしかしたら、これは、歴史小説における自分の創作姿勢を弁護するための韜晦かもしれない。

ともあれ鴎外は、晩年歴史小説を書くようになって、歴史的な事実に忠実たらんと意識したようなのである。それでも、小説は、基本的には創作であるから、全く想像力と無縁というわけにはいかない。事実を踏まえながら書くとしても、小説としての面白さを盛り上げるためには、或る程度の脚色はすることもある。そのあたりのほど合いを自分がどのようにつりあわせたか、鴎外は「山椒大夫」をサンプルにして説明している。

鴎外は、種々の語り物の中に粟の鳥を追う女のことがあるのを、小説にしたいと思い、「山椒大夫」を書いたと言っている。粟の鳥を追う女の事、というのは説教節の「山椒大夫」のことで、鴎外はその説経説教節のテクストをもとに小説「山椒大夫」を書いたのである。説経節の原テクストと鴎外の小説には、いくつかの重大な相違がある。説経節の本文は、厨子王丸の復讐を主なテーマにし、その復讐を通じて、当時の庶民が抱いていた怨念のようなものが開放されるさまを語っていたのだったが、鴎外の小説からは、そうした怨念は排除されて、ある種の諦念が前面に押し出されている。また、事実についても、たとえば原作で梅津院とされている人物を、藤原基実という実在の人物に仮託したり、山椒大夫の息子の数を、減らしたりしている。

山椒大夫の世界はもともと説経節という語り物の世界であって、歴史上の事実の世界ではない。だから、それを材料に使ったからといって、歴史的な事実にしばられるいわれはない。実際鴎外は、これを書くについて、なるべく歴史的な制約からのがれ、書きたいように書くというやり方を取ってみたいと思ったのだが、実際書いてみると、歴史的な事実を無視することができず、時代設定を厳密化したり、主人公の年齢設定を工夫したり、物語としては余計ともいえる配慮を行わざるをえなかった。そういう意味では、歴史小説としても物語としても中途半端なところがある。その中途半端さを鴎外は、「歴史離れがし足りないようである」といって反省している。

鴎外がこの小文で言っていることは、とりあえずは「山椒大夫」執筆の舞台裏を告白したものだが、それを通じて、小説と史伝との相違に一層自覚的になったようである。それ以前鴎外は、「栗山大膳」という、史伝とも小説ともつかないものを書いたことがあった。これを鴎外は、小説ではなく雑録として発表してほしいと出版社に伝えたのだったが、出版社は小説として取り扱った。それは自分がまだ、小説と史伝との相違に自覚的でなかったためで、出版社が誤解するのは無理もなかった。だから、史伝を書くについては、歴史そのものを再現するという態度を徹底させねばならぬ。そういう自覚の深まりを踏まえて、「渋江抽斎」以降の史伝三部作が執筆されていったというふうに考えられる。

もっとも鴎外は、「渋江抽斎」を書く前に、「高瀬舟」を書いている。これはそれまでの「歴史小説」の延長上にあるもので、ある意味、鴎外の歴史小説の到達点を示す作品といってよい。それを書き上げて、一応の達成感を味わったのち、鴎外は本格的な史伝の執筆へと舵をきることができたのではないか。






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