現成公案その三さとり:正法眼蔵を読む

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心身脱落の結果現れるのはさとりの境地である。そのさとりとはいかなるものかについて書かれたのが「現成公案」の後半部である。以下テクストにそって読み解く。原文と現代語訳を併記する。

 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を點し、天月の廣狹を辨取すべし。

人がさとりを得た状態は、水に月が宿っているようなものだ。月が濡れることはなく、水もやぶれない。月の光は広くて大きいが、わずかの水にやどり、満月も、大空にも草の露にも一滴の水にもやどる。さとりが人をやぶらないのも(同じことで)、月が水をやぶらないようなものである。人(の器)がさとりの邪魔にならないのは、一滴の露が月を宿すのを邪魔だてしないのと同じだ。深く映るのは月が高いゆえだろう。修行の期間の長短は、人の器の大きさと、さとりの程度によると思うべきである。

 身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海山おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

心身に仏法がいきわたっていないうちは、仏法がすでに足りているように思う。仏法が充足すれば、まだ物足りないと思うものだ。たとえば、船に乗って海中に出て周囲を見ると、ただ丸く見える。そのほかには何も見えようもない。だが、この大海は丸いわけではなく、四角いわけでもない。目に見える範囲をこえて尽きることがないものだ。宮殿のようでもあり、瓔珞のようでもある。ただ自分の目の及ぶ限りでは、丸く見えるだけのことなのである。万法も同様である。世界中、さまざまな様相があるにかかわらず、人は自分の見える範囲で見るに過ぎない。万法の在り方を認識するためには、目で見えるだけではなく、それ以外のさまざまな様子があることを知らねばならない。外部の存在のみならず、自分自身にも同じことがいえると知るべきである。

 うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふ事なく、処処に踏飜せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。

魚が水中をいくら泳いでも水がとぎれるということはなく、鳥がいくら空を飛んでも空が途切れることはない。そうはいっても、魚も鳥も水と空を離れてはおられない。ただ、大きく用いるときは使う部分も大きく、小さく用いるときは使う部分も小さい。そのようにして、魚鳥が水空の際を尽くさないということはなく、処として及ばないところはないのだが、鳥は空を離れればたちまち死に、魚は水を出ればたちまち死ぬ。水を以て命と為す、空を以て命と為す、鳥を以て命と為す、魚を以て命と為す、命を以て鳥と為す、命を以て魚と為す、このことを知るべきである。このほかにもさらに様々に進んでいうことができる。修行とさとりがあって、そこに人間の寿命があることは、以上の比喩のとおりである。

 しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

ところが、水を極め空を極めて後に水と空をゆこうとすれば、その鳥魚は水にも空にもゆくことができないであろう。所を得ないからである。ところを得れば、なさんとする行動も実現するのだ。この道理を得れば、行為はおのずから実現する。この道、このところは、大にあらず小にあらず、自他にあらず、過去によってあるにあらず、今現在生じるにあらざるがゆえに、かくのごとき次第なのである。

この段落ではじめて、「現成公案」という言葉が出てくる。このコンテクストでは、とりあえず「実現」という意味で使われているが、それが「真理の実現」に通じていることは、文脈からわかるところだと思う。

 しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

以上のように、人がもし仏道を修行してさとりを得れば、「一法を得れば、一法に通じ、一行を得れば、一行を修する」ということになる。これにはところがあり、道が通じているからといって、知るべきことの辺際がはっきりしないのは、その知るべきことが、仏法の究極だからである。たまさかに得たものを自己の知見として、分別知のように思うべきではない。悟りの境地がにわかに現成するといえども、それが密有(知覚できないもの)ならば現成とはいえない。見成(現成)は、なんぞかならずしも、なのである。

麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
「風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」
師いはく、
「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」
と。僧いはく、
「いかならんかこれ無処不周底の道理」
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、礼拝す。

この部分は、訳さずともわかると思う。趣旨は、人間には生まれつき仏性が備わっているというのが真実ならば、すでに成仏できているものが、重ねて修行するのは無意味だという批判に、扇の比喩を用いて答えているというものだ。

現成公案の巻は、次のような文章で結ばれている。

 仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。

これもわかりやすい文章なので、訳さずともわかるだろう。要するに、仏性を備えたものであっても、それを実現(現成)するためには修行が必要だということである。






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