蔡明亮「西瓜」:水不足の台湾社会をそれなりに愉しむ

| コメント(0)
taiwan4.suika.jpg

蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の2005年の映画「西瓜」は、前作「楽日」同様ほとんどセリフのない映画である。セリフがほとんどないので、ドラマ性もない。ドラマというものは、言葉によって演出されるものだから、その言葉がないということは、ドラマが成り立たないということなのだろう。そういうのを何と称するのか。アンチ・ドラマとでもいえばよいのか。

一応映画を成り立たせるための設定は感じられる。台湾社会が深刻な水不足に陥り、人々はかなり不自由な生活を強いられながらも、それなりに与えられた状況を楽しむというものだ。要するにこの映画に出てくる台湾住民は、状況に適応するのがうまいのである。どんなひどい状況でも、楽しく生きるコツを心得ているのが台湾住民の強みだと言いたいかのようだ。こういう適応力があったればこそ、台湾住民は大日本帝国の支配を受け入れ、蒋介石を我慢できたのではないか。今後大陸との間で深刻な対立が生じても、台湾住民ならかしこく適応できるに違いない。そんなふうに思わせる映画である。

AV映画の俳優と、旅先から戻ってきた女が主人公である。この二人は過去に、一度で出会ったことがある。それがきっかけで仲良くなったりするが、どういうわけかセックスするような間柄には発展しない。そういう設定を前提にして、かれらを中心にして水不足の台湾社会における人々の暮らしぶりが描かれる。

水不足になったからといって、そんなに困るわけではない。水道の水の代わりにミネラル・ウォーターを飲めばよいのだし、また、のどの渇きをいやすには西瓜の汁をすすればよい。西瓜は飲料に用いられるだけではなく、身体を洗ったりセックスの小道具に使われたりする。股の間にでかい西瓜を挟んだ女が、西瓜を愛撫されることで感じてしまうなどはその一例だ。これに限らずこの映画には、人を食ったような仕掛けがいたるところに施されてある。要するにナンセンス映画なのである。

また、西瓜を孕んだ女が、西瓜の分娩に苦しんだり、西瓜模様の傘をかざした大勢の女たちが踊る場面も出てくる。西瓜は水不足の代償としてのみならず、それ自体が象徴的な意義を帯びているのである。

西瓜模様の傘に合わせて女たちが歌うシーンのほかに、いたるところで男女が歌うシーンが出てくる。だからミュージカル仕立てにもなっている。ポルノ俳優の男などは、アパートの屋上にある貯水プールのなかに裸で飛び込んで、怪しげな歌をうたう始末である。

かような具合に人の意表を突くような作品である。こうした映画が台湾から生まれるのには、それなりの事情があるのかもしれない。こういうナンセンス映画は、社会が上げ潮になっている時代に生まれるものだ。日本でも、高度成長華やかな時代には、クレージーキャッツとか青島幸雄といったナンセンスな連中が大いにもてはやされたものだった。そういう時代の日本を、この映画はかなり意識しているようで、随所で日本語がしゃべられる。また、主人公の女が履いているのは、日本風の下駄なのである。






コメントする

アーカイブ