カール・ポランニーと宇沢弘文

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岩波の雑誌「世界」の最新号が、特集2として、「もうひとつの資本主義へ=宇沢弘文という問い」というテーマを押し出している。宇沢弘文といえば、「社会的共通資本」という概念を武器に、資本主義の限界について考察を行った経済学者であるが、新自由主義経済学が猛威をふるうようになった時代には、ほとんど忘れられた存在になっていた。それが今日脚光を浴びるようになったのは、資本主義経済の矛盾が激化し、そうした状況を踏まえた、あたらしい資本主義が模索されるようになったからだろう。自民党政権でさえ、岸田首相を先頭に、「あたらしい資本主義」を云々するようなった。もっともその言葉を発している岸田本人に、どれだけ問題がわかっているか、心もとないのではあるが。

この特集は、間宮陽介、若森みどり、佐々木実による座談会を先頭においている。題して「カール・ポランニーと宇沢弘文」という。間宮は宇沢弘文の薫陶を受けた弟子であり、若森はポランニー研究の第一人者、佐々木は竹中平蔵の評伝で知られ、竹中が先頭になって喧伝した新自由主義的な主張には懐疑的である。

小生は、若いころに宇沢弘文を読み、その思想は一応頭に入っているが、ポランニーのほうは読んだことはない。若いころに東洋経済社から出ていた「大転換」を買ったはいいが、その後「つんどく」にゆだねて、まだページをひもといていない。それでも、現在の家に引っ越しするさいに大量の本を廃棄した中で(その中にはマルエン全集なども含まれていた)、ポランニーのこの本は捨てずに持ってきたので、そのうち読むつもりではあったわけだ。今回この座談会の記録を読んで、ポランニーの思想が興味深いかたちで言及されているので、近いうちに是非読まねばなるまいと思った次第。

まず、宇沢の思想の核心を、弟子の間宮が手際よく要約する。宇沢は市場経済を市場と非市場の複合体(市場経済=市場+非常)として捉えたうえで、市場経済は市場のみで完結するものではなく、非市場的な領域がなければ安定的に存立することはできないと考えた。市場のみしか考えない新自由主義経済(市場原理主義という)とは鋭く対立したわけである。

ポランニーは、宇沢よりずっと前の世代の人だが、市場経済の見方については、宇沢と同様の立場に立っていた。主流派経済学(それはやがて市場原理主義を生み出す)は、すべての経済活動を市場の諸要素へ完全に還元してしまうが、それでは社会の荒廃を招いてしまう。若森によれば、ポランニーは、あらゆる事柄を『経済的な観点』からのみ捉える見方を、『経済的主義な思考』といって拒絶した。ポランニーは、ファシズムと世界戦争の勃発を「経済的主義的な思考」の産物だと見ている。市場経済は、経済が順調にあるときは政治的な民主主義を許容するが、大恐慌に襲われたり長期的な不況に見舞われると、危機から脱するために究極の経済合理性を追求するようになる。そのため、民主主義や人間の自由がコストとみなされ、切り捨てられる。その結果ファシズムのような現象が起きる、そうポランニーは考えていたというのである。たしかにそうした考えは、市場経済がグローバルな規模でうまく働くなくなってきつつある今日、非常な現実味を以て迫ってくるのではないか。

ポランニーのこうした議論には、人間の望ましいあり方をめぐる倫理的な考えが働いていた。その倫理的な考えは、リベラリズムという形であらわされる。そのリベラリズムを、ポランニーと宇沢は共有していた。それを、ポランニーは、市民的な自由の重視に見た。その市民的な自由とは、「差異を持つ自由、自己の見地を守る自由、少数派に属する意見を持つ自由、そして共同体内の異質な存在であるがゆえに、その名誉ある構成員である自由のこと」である。一方宇沢は、ウェブレンの制度主義に依拠しながら、「すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような、リベラリズムの理念に適った経済体制の実現」を目指した。

その二人に共通するリベラリズムの要諦は、「一人ひとりの人間の倫理的な判断をリスペクトする点にありました」(若森)という言葉で、この座談会は締めくくられている。






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