メルロ=ポンティ「シーニュ」を読む

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「シーニュ」はメルロ=ポンティにとって、「意味と無意味」に続く二冊目の論文集である。これを刊行したのは1960年のことであり、「意味と無意味」の刊行から12年が過ぎていた。しかも彼は、この本の刊行の翌年、1961年に死んでいる。だからこの論文集は、「意味と無意味」以降の彼の文業の集大成的な意味をもっているわけだ。その間に彼は、サルトルと決別し、またマルクス主義とも一線を置くようになり、次第に彼の性にあった活動をするようになる。もっともその活動は、突然の死によって中断されるのであるが。

この論文集は、12編の論文(うち一つは発言集の体裁)と「序」からなっている。「序」はかなり長い文章で、論文集全体の序文というよりは、その時点での、かれの立ち位置を確認するような内容の文章である。大部分はサルトル批判に費やされている。じつはその年サルトルはポール・ニザンの著作「アントワーヌ・ブロワイエ」の復刊に際してニザンを称揚する内容の文章を寄せており、それを契機にニザン再評価が進むことになったといういきさつがある。メルロ=ポンティはそれに強い違和感を抱き、そんなサルトルとニザンとを批判する意図からこの長い「序」を書いたと推測される。「序」であるから、それにとどまらず、収載論文への「序」としての部分も併せ持っている。

まず、サルトル批判から見てみよう。メルロ=ポンティは、サルトルが死んでしまったニザンをいまさら称揚することに我慢がならなかったようだ。ニザンはサルトルやメルロ=ポンティとは異なってコミュニストであり続けたし、フランスのコミュニスト(フランス共産党)に愛想をつかした時にも、自分自身はコミュニストのつもりでいた。そんなニザンをサルトルが称揚するのは、おそらく友情のせいだろうとメルロ=ポンティはほのめかす。サルトルとニザンは師範学校の同級生だったし、また、マルクス主義者として同盟関係にあった。だからサルトルがニザンを友人として遇するのは理解できる。だがそれは、ニザンの思想を手放しでほめていいことにはならない。ニザンの思想にはいかがわしいところがある。そのいかがわしさは、コミュニズムという思想に由来している、というのがメルロ=ポンティの見立てだたったように見える。

コミュニズムをメルロ=ポンティは次のように定義づける。「余にある中でもっとも客観的でありながら、もっとも不安に駆られた思想、そして堅固な外観のもとに、ふにゃふにゃとして、ひそかな陰湿さを備えた思想」(海老坂武訳)であると。サルトルとニザンも、マルクス主義者であろうとするかぎり、そうした陰湿さを免れない。その上彼らは二人とも、スピノザ的マルクス主義者であった。それは「単に、肯定性への復帰をこの世にいるときからわれわれに保証する、欺瞞的な方法に過ぎない」。陰湿さといい、欺瞞的といい、メルロ=ポンティのマルクス主義への嫌悪感は相当のものである。だから彼は、ニザンについてはほぼ全面的な拒否感を表明する一方、サルトルについては、マルクス主義者として不徹底な部分に、まだ許せるものを感じていたようである。

メルロ=ポンティが。マルクス主義をめぐって、サルトルと対立関係になるのは1952年頃のことである。そのころサルトルは、コミュニズムにもっとも近づき、左翼の立場からさかんに政治的な言説を発表していた。それらの多くはサルトルなりのマルクス解釈に根差したものだった。それに対してメルロ=ポンティのほうは、マルクス主義に距離を置くようになった。その理由はおそらく、スターリン主義への幻滅だったろう。1952年にはスターリンはまだ生きていたが、かれの所業は広く西側に知られるようになっていた。そのことが、西側のソ連批判を勢い付かせ、メルロ=ポンティにマルクス主義への反感を醸し出させたのだと思う。ソ連批判は、スターリンの死後に起きたハンガリー事件でさらに勢いづいた。フランス共産党が次第に勢いを失っていくについては、そうした一連のソ連批判のキャンペーンが強く働いていた。そうした情勢のなかで、サルトルはフランスのもっとも一貫したコミュニストと思われていたポール・ニザンを称揚したわけで、マルクス主義嫌いになっていたメルロ=ポンティにとっては、スキャンダル以外の何物でもなかっただろう。

メルロ=ポンティは、サルトルやニザンよりやや年少だが、師範学校時代にすでに知り合っていた。メルロ=ポンティは始めて会った頃のニザンを嫌っていたようで、それはニザンをヴァロア派(右翼)として描写していることにあらわれている。もともと右翼だった男が、どんな理由でマルクス主義者になったのか、と疑問を投げかけているわけである。かれがニザンに個人的な敵愾心を持っていたことは十分推測される。

一方サルトルについては、人間として付き合いやすいタイプだと思っていたようである。サルトルとニザンを比較し、「一方は苦悩から出発し他方は歓喜から出発し、一方は幸福へむかって他方は悲劇的なものへむかって歩みつつ、一方はその古典的な側面から他方は影の側面から、両者ともにコミュニズムに近づき、最後にはともども事件によって投げ捨てられた」と書き、また、「サルトルにおいて損なわれていないもの、それは新たなものの、自由な感覚である」と書くとき、メルロ=ポンティはサルトルを、付き合いやすい人間だとして評価しているわけである。そのサルトルに比べて、メルロ=ポンティが、付き合いやすい人間だとはいえないような気がする。サルトルは陽気な男だが、メルロ=ポンティは陰気なのだ。

以上は、サルトルへのメルロ=ポンティのかかわりについて見たものだが、この「序」には、メルロ=ポンティ自身の哲学上の立場を確認する言葉も見られる。なにしろこの論文集は、サルトルと決別した以降の文章を中心して構成されているので、その決別以降に、自分がどのような立場から発言してきたか、弁明しておく必要を感じたのだろう。それを一言で言えば、哲学と政治との分離である。哲学は政治的な目的に従属すべきではなく、それ固有の問題について思索するべきだ、というのが、後半期におけるメルロ=ポンティの基本的立場である。もっともそういう立場は、「行動の構造」と「知覚の現象学」にも指摘できるものであり、とくに目新しいわけではない。というより、メルロ=ポンティが政治的になったのは、時代の空気に敏感に反応したからであって、その空気が落ち着いてみれば、もとどおり哲学固有の課題にもどるというのが、(彼にとっては)自然な動きなのである。






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