魔訶般若波羅蜜:正法眼蔵を読む

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「正法眼蔵」第二「魔訶般若波羅蜜」の巻が説かれたのは天福元年(1233)、現成公案」を説いた翌年、道元満三十三歳の年である。「現成公案」に引き続き、空の思想を説いている。それを道元は、「般若心経」及び「大般若経」の経文を引用し、それに注釈を加えるかたちで説くという方法をとっている。併せて道元が古仏と呼ぶ天童如浄の教えを紹介している。般若心経を読んだことのある人には、わかりやすい説明だと思うので、テクストにそった逐語訳はせずに、ポイントとなるところをとりあげて、小生なりの評釈を加えたい。段落ごとにとりあげ、漢文は読み下し文にしてある。

 観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空是空なり。百草なり。万象なり。
 般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行住坐臥なり。

般若心経のエッセンスの部分をとりあげて注釈した部分、空の思想は、「五蘊皆空」以下ごく簡単に触れられている。一方、般若(智慧)については、その種類を詳しく説明している。五蘊は色受想行識からなり、物質界及び精神界をあわせたもの。つまり世俗的な世界の総称である。十二入は、眼耳鼻舌身意の六根と色声香味触法の六境を合わせたもので、それに眼耳鼻舌身意の六つの識を加えたものが十八界である。苦集滅道は初転法輪の中で説かれた四諦の教え、布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若は六波羅蜜、阿耨多羅三藐三菩提は完全なさとりの境地、過去現在未来は三世のこと、地水火風空識は宇宙の構成原理としての六大のこと、行住坐臥は四威儀とも呼ばれ、人間の行動の総称。

 釈迦牟尼如来の会中に一の苾蒭あり、竊かに是の念を作さく、我れ甚深般若波羅蜜多を敬礼すべし。此の中に諸法の生滅無しと雖も、而も戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、解脱知見蘊の施設可得有り、また預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の施設可得有り、また独覚菩提の施設可得有り、また無上正等菩提の施設可得有り、また仏法僧宝の施設可得有り、また転妙法輪、度有情類の施設可得有り。
 仏、其の念を知りて、苾蒭に告げて言く、是の如し、是の如し。甚深般若波羅蜜は、微妙なり、難測なり。
 而今の一苾蒭の竊作念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり。この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いわゆる戒定慧乃至度有情類等なり、これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

この段落は、大般若経の「著不著相品」からの引用を踏まえる。「苾蒭」は出家者のこと。「施設可得」という言葉が多出するが、これは、仮の真理といったような意味の言葉。その仮の真理が、諸法を敬礼することで現成するというのである。

 天帝釈、具寿善現に問て言く、大徳、若し菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲はば、まさに如何が学すべき。
 善現答へて言く、憍尸迦、もし菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲はば、まさに虚空の如く学すべし。
 しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。

これも「大般若経」の「著不著相品」からの引用を踏まえる。「具寿善現」は釈迦の第一の弟子「須菩提」のこと。「憍尸迦(きょうしか)」は帝釈天が人間だった時の姓。二人のやりとりは、般若を学ぶことがすなわち虚空だというのである。

 天帝釈、また仏に白して言さく、世尊、若し善男子善女人等、此の所説の甚深般若波羅蜜多に於て、受持読誦し、如理思惟し、他の為に演説せんに、我れまさに云何が守護すべき。ただ願はくは世尊、哀を垂れ示し教へましませ。
 爾の時に具寿善現、天帝釈に謂つて言く、憍尸迦、汝、法の守護すべき有ると見るや不や。
 天帝釈言く、不や、大徳、我れ法の是れ守護すべき有ることを見ず。
 善現言く、憍尸迦、若し善男子善女人等、是の如くの説をなさば、甚深般若波羅蜜多、守護すべし。若し善男子善女人等、所説の如くなさば、甚深般若波羅蜜多、常に遠離せず。まさに知るべし、一切人非人等、其の便を伺求して、損害を為さんと欲(せ)んに、終に得ること能はじ。
 憍尸迦、若し守護せんと欲はば、所説の如くなすべし。甚深般若波羅蜜多と、諸菩薩とは異なること無し、欲守護虚空と為す。
 しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持読誦等なり。

これも「大般若経」の「著不著相品」からの引用を踏まえる。天帝釈の釈迦への質問に、須菩提が釈迦に代わって答える。その内容は、甚深般若波羅蜜多と、諸菩薩とは異なること無し、というものである。

 先師古仏云、
  渾身似口掛虚空、
  不問東西南北風、
  一等為他談般若。
  滴丁東了滴丁東。
 これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。

これは、道元の師天童如浄の言葉を踏まえたもの。心身すべてが般若であり、自他ともに般若であり、東西南北すべてが般若であると説く。

 釈迦牟尼仏の言く、舍利子、是の諸の有情、此の般若波羅蜜多に於て、仏の住したまふが如く供養し礼敬すべし。般若波羅蜜多を思惟すること、応に仏薄伽梵を供養し礼敬するが如くすべし。所以は何(いかん)。般若波羅蜜多は、仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は般若波羅蜜多に異ならず。般若波羅蜜多はち是れ仏薄伽梵なり。仏薄伽梵は即ち是れ般若波羅蜜多なり。何を以ての故に。舍利子、一切の如来応正等覚は、皆般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。舍利子、一切の菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流等は、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。舍利子、一切世間の十善業道、四静慮、四無色定、五神通は、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。

これは「大般若経」の「讃般若品」からの引用を踏まえたもの。薄伽梵は世尊という意味、舎利子は、釈迦の高弟。般若心経に出てくる。この段落の趣旨は、一切の如来、菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢等、一切世間の十善業道等は、すべて般若波羅蜜多より出現(現成)するということである。

 しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

これも「大般若経」の「讃般若品」からの引用を踏まえたもの。空の思想を要約している。






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