権力者の無責任な言動を追認するメディア

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岩波の雑誌「世界」が、「メディアの『罪と罰』」と題した連載を行っている。これは、朝日出身のジャーナリスト松本一弥による、いわばジャーナリストとしての自己批判のようなものだが、最新号(2023年6月号)の二回目では、「権力者の無責任な言動を追認するメディア」と題する記事を寄せている。

文字通り、無責任な政治家たちの言動を、まともな反省もなく、ただただ垂れ流しているに過ぎない日本のメディアの情ない姿を痛烈に批判したものだ。なぜ日本のメディアは、そんなにも情ないのか。もともと情なかったのか、それとも昔はもっとよかったが、近年になって情なくなったのか、そのへんを掘り下げているわけではないが、文章の調子からして、近年ますます情なくなったと考えているように伝わってくる。小生などは、日本のメディアは伝統的に情けない体質を持っていると思っているから、松本の言い分を必ずしも鵜呑みにするわけではないが、しかしかれのジャーナリストとしての危機感はわかるつもりである。

日本のメディアの情なさは、「報道の自由度」の評価が、各国比較で極端に低いことに現れている。G7はじめ先進諸国の中では最低だし、アジアの他の国に比べても低い始末だ。その理由の一つとして、松本がこの論文の中で指摘しているような、日本のメディアが権力に忖度するあまり、その言い分をほぼそのままに垂れ流し、いわば権力の広報機関に堕しているという事情があるだろう。そのほか、日本に特有の記者クラブの存在も、日本のメディアの権力からの独立を阻害している、とはよく指摘されることだ。要するに日本のメディアは、報道機関としての独立を確保できていないといってよい。それは報道の根本的な姿勢を放棄しているのと同じことで、そんなものを報道と呼ぶには値しないということになろう。

その結果、「権力を持った者を国民に代わって厳しく監視するジャーナリズムの使命が、この国ではまともにはたされていない。少なくとも多くの国民はそう感じている」といったような事態を、ジャーナリズム自身が招くようなことになるわけである。

もっともそんな指摘は、とっくの昔から言われてきたことで、いまさらそれを言い募るのは徒労のような気がする。それほど日本のメディアの情なさは、構造的なものなのだと言わざるをえない。たしかに日本の報道は、調査も検証も、ましてや批判もいい加減なものが多く、とても信頼を置くことはできない。

ニューヨーク・タイムズが読者離れによって深刻な経営危機に陥ったあと、真摯な努力のおかげで読者の信頼を取り戻し、多数の読者の獲得に成功したのは、権力から独立した姿勢が広範な人々に評価されたからだと松本は言っている。日本のメディアが、ニューヨーク・タイムズを見習わず、あいかわらず権力の広報機関に甘んじていては、早晩消滅することとなろう。





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