大岡昇平「堺港攘夷始末」を読む

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大岡昇平が「堺港攘夷始末」を書いたのは最晩年のことであり、その完成を見ずに死んだ。もっとも書こうと思ていたことの九分ほどは書いたと思われる。書き残したのは、この事件についての大岡の総括的な批評であったようだ。大岡は本文の中でもそうした彼自身の批評を折に触れ加えているから、大岡が当初意図したこの作品の構想は、大部分果たされたといってよいのではないか。だから、この作品は一個の独立した史論として読んでよい。

大岡がこの史論を書くにいたった動機については、色々あるようだ。大岡は鴎外の「堺事件」をとりあげ、鴎外が限られた資料に基づいて、この事件をかなり歪曲して書いていると批判し、それについて国文学者の尾形仂が反論したことがあった。尾形は「鴎外の歴史小説」といった本を書いており、鴎外についてかれなりの知見をもっていたようで、大岡の鴎外批判は的外れだと言いたかったようである。それに対して大岡は、鴎外のこの事件についての見方にゆがみがあることを、事実の考証の上に証明したかった、というふうに考えることもできる(大岡は本文の中で尾形に触れ、国文学者と歴史家とは視点が違うのだという意味のことを書いている)。

大岡はその前に、「天誅組」を書いている。天誅組は公家の中山忠光を首魁とした尊王攘夷団体で、文久三年(1863)吉野で挙兵して鎮圧されている。その中に土佐の尊王攘夷派の武士もいた。それが、堺事件を起こした土佐の武士たちとつながることになる。堺事件を起こした武士たちの動機を大岡は尊王攘夷の思想感情に求めており、それが、それまで尊王攘夷を叫んでいた新政府の連中によって裏切られた、と大岡は考えている。つまり大岡は、この二つの事件が尊王攘夷を通じて結びついていると感じたわけだ。そんなことから大岡は、この事件の評価を尊王攘夷という視点から解釈しなおしてみたいと思い、これを書こうと思ったのではないか。

鴎外は、明治二十六年刊行の、旧土佐藩士佐々木甲象の「泉州堺土藩士列挙始末」をほぼ唯一の材料として「堺事件」を書いた。この「始末」にひきずられたことで、鴎外の歴史認識には大きな欠陥が生じたと大岡はいう。「始末」は、横田辰五郎、土居八之介ら事件の生き残りの証言にもとづいて書かれており、いくつかの重大な問題を抱えていた。事件の引き金となったのは、フランス人兵士が堺市内で乱暴狼藉をはたらいたことへの日本側の正当な反応だったとする点、事件を起こした藩士らが切腹するシーンをことさらに脚色し、その凄惨な様子に辟易したフランス側が、予定されていた20人のうち、11人までで中止したのは、土佐藩士の気力に圧倒されたからだと見る点、などが主なものである。鴎外もまた、そうした脚色をそのまま採用して、事件を再現した小説を書いた。それは歴史小説としては、誠実なやり方ではない。そう大岡は考えるのである。

大岡は、佐々木の「始末」に加え、この事件に関する一級歴史資料にことごとくあたり、事件の全貌を詳しく解明した。その結果わかったことは、フランス兵が乱暴狼藉を働いた事実はなく、事件そのものは、箕浦巳之吉ら首謀者が、攘夷の感情に駆られて起こしたということ。その証拠に、箕浦らは、茶屋で待ち伏せしたうえで、フランス兵に襲いかかっており、偶発的な衝突ではなく、計画的な行為だったと大岡はいう。事件が起きた後の処置については、「始末」が現場の視点から微視的で当時の社会情勢をまったく考慮しないと、これは或る意味仕方のないことなのだが、その近視眼的な見方を批判している。その上で、この事件前後には、日本では攘夷をとりやめ、外国との交際を重んじる方針に切り替わっており、したがって堺事件を引き起こした土佐藩士らは、権力の威光に盾突いたということになる。そういう社会的な事情を背景にして、かれらに対する処分が行われたというふうに捉えねばならない。ところが鴎外には、そうした視点が全く欠けている、というのである。

鴎外がこの事件を取り上げた意図は、武士の面目とか名誉の感情を描くことにあり、事件の全貌を再現することではないから、大岡の批判は正鵠を得ていないという見方がありえないわけではないが、大岡はそれなら別にやり方があるわけで、歴史を取り上げるについては、事実に忠実でなければならないと考えたようだ。

事実認識の問題はそれとして、大岡がこの作品のなかで、自分自身の考えとして言いたかったことは、一つには、事件の首謀者らが強い攘夷感情をもち、それに突き動かされて外国人に危害を加えたことには相当の理由があり、また、同情に値するものがあるということだ。その攘夷感情に対して、鴎外は冷笑的であり、また、土佐藩主や政府の要人も否定的だった。政府の要人は、列国との関係が悪化することを恐れて、必要以上に卑屈にふるまい、そのことで箕浦ら事件をおこしたものらを、侮辱している。それは倫理的に許されるものではないだろう、というのが大岡の感情的な反応である。大岡には、人間の情念ののようなものを尊重する傾向が指摘できるのである。

大岡がもっとも強く非難するのは土佐藩主山内容堂である。この事件の際には、容堂はすでに隠居していたが、まだ土佐を代表する形で大きな影響力を保持していた。容堂はもともと頑迷な攘夷主義者ではなかったが、自分の部下の武士たちが攘夷を理由に処罰されるについては、上司としての人間的な礼儀があってしかるべきだったろう。ところが容堂は部下の行為を言語道断と決めつけ、かれらを見捨てるとともに、ひたすら自分の保身を図ったことは実に見苦しい、と大岡は感じたようだ。鴎外にはそうした義憤は全く見られない。

箕浦ら土佐の藩士に同情的だったものがいないわけではなかった。たとえば谷干城。谷は土佐藩士としてこの事件にある程度の関心をもっていたようで、後に刑死した藩士らの名誉回復のために動いている。また、堺や大阪の町人たちも、かれら刑死した土佐藩士に大きな同情を寄せた。町人らは、「よかよか節」を流行らせて、刑死した藩士らをいたわったのである。

大岡はまた、この事件へのフランス側の対応にも注目している。鴎外はじめ日本側の大方の受け止め方は、藩士らの凄惨な切腹の様子に肝を冷やしたフランス人が、途中で切腹を取りやめさせたというものだったが、実は、フランス側は当初からフランス側の犠牲者と同じ数の刑の執行を予定していたというのである。それは、ヨーロッパ人が否定する応報思想そのものではないか、そういってフランス側の欺瞞と日本側のお人好しぶりを指摘するのである。

フランス側は日本人を対等な人間として認めていなかったと大岡は言いたいようであるが、そうした日本人を見下す態度は、イギリスやほかの国も同様だった。かれらは日本人を、半文明国の野蛮人として扱い、野蛮人は理屈ではなく力で屈服させるものだと思っていた。それゆえ、西郷があくまで江戸を破壊するつもりなら、外国艦隊が艦砲射撃でそれを阻止するといった。西郷が勝との間で江戸城引き渡しの談判に応じたのは、イギリスの威光を忖度したまでだ。なにもかれらの手柄だったわけではない、というのが、大岡のシビアな見立てである。西郷と勝は猿芝居を演じたにすぎないというわけである。






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