加藤周一のマルクス観

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加藤周一の論文「科学と文学」は、文字どおり「科学と文学」の関係を、「知る」、「感じる」、「信じる」という人間の三つの能力と関連させながら論じたものだ。かならずしも厳密な議論とは言えず、啓蒙的な狙いをもった文章である。その中で加藤は、科学と技術、技術と社会、社会と文学といった、いくつかの対立軸についてざらっとした見取り図を提示している。その見取り図には新奇なものは見当たらないが、一つ面白いのは、それらに関連させて彼が独自のマルクス観を語っている部分だ。

「もしマルクスが十月革命を起こすのに役立ったとすれば、それはマルクスが科学者だったからではなく、マルクスが詩人だったからだろうと思う」と加藤は言う。科学は「知ること」の上に成り立っている。一方詩は「感じる」ことや「信じる」ことによって基礎づけられる。人がバリケードに行くのは、「知っている」からではなく「信じている」からである。その「信じている」ことが洗練された形をとったものが「信条」である。マルクスは「科学者」というべきではなく、「信条の人」としての「詩人」だというのである。

加藤はこのように、科学者としてのマルクスを全くといってよいほど認めていない。彼は「資本論」を取り上げて、マルクスがいうところの、「交換価値の背後に、労働価値があるという命題は、ほとんど世界を神が創ったという命題と同じでしょう」といって、その科学性を否定するのである。「資本論」は科学的な著作ではなく、信念の体系ということになる。信念であるから人をバリケードに向かって走らせることができたというわけである。

「資本論」がなぜ科学的な著作といえないのか、その理由を加藤は説得的に説明しようとはしていない。彼自身の個人的な拒絶感を述べているに過ぎない。だから誰しも、加藤の立論を整然と批判することはできない。批判すべき材料がなにもないからだ。個人的な感想については、他人がとやかくいうようなことはないのである。

ともあれ加藤は、マルクスが革命家として成功した理由を、そのゆるぎない信念に求めている。その信念が人を動かした。だからマルクスは、科学者というよりは、「一種の文学的天才」だったということになる。その文学的な天才が人を鼓舞する。マルクスの場合には、文学的な成功が直接の目的ではなく、社会革命を目的としており、その目的のために、資本主義社会の分析を行ったり、それを踏まえて社会革命への呼びかけを行ったのであるが、その呼びかけを効果的なものにするうえで、かれの文学的な才能が非常に役立ったということにすぎない。

「マルクスの皮肉とか逆説は、実に見事に輝かしく彼の文章を彩っています」と加藤は言って、マルクスの文学的な才能については、手放しで持ち上げているのであるが、マルクスとしては、そのような持ち上げられ方は不本意であろう。かれが情熱をかけて追求したのは、資本主義社会のメカニズムを明らかにし、それを踏まえて社会革命を成功させるということであって、なにも自分の文章の綾を褒めてもらうのが本意ではなかろうからだ。

加藤がマルクスを科学的でないと断定する理由は、どうやら、それが「価値中立的な体系ではなく・・・価値とかかわりあった体系」であると考えることにあるようだ。加藤は科学を、事実に基づく実証的な学問だと定義したうえで、実証的な学問は価値中立的であるべきだから、ある特定の価値とかかわっているマルクスの説は「科学的」とはいえないと考えているようである。そうした考えがどういう場合でも有効かどうかは、ここで問題とすることはしない。ただそういうことで加藤が、マルクス批判を、問題の入口のところで切り上げてしまっていると指摘するにとどめたい。マルクスについての加藤の態度は、誠実なものとは言えないだろう。






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