ネトウヨと伝統右翼はどう違うか:現代日本のSNS空間

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岩波の雑誌「世界」の最新号は、「現代日本のSNS空間」と題する特集を組んでいるが、寄せられた論文はみな、SNS空間のネガティブな面に注目している。特に、ネトウヨと呼ばれるような連中による社会の少数派への誹謗中傷のすさまじさが、日本の民主主義の脅威になっているといった指摘が注目される。冒頭の「『Colaboバッシング』とは何なのか」と題した小川たまかと安田浩一の対談は、最近起きた女性支援団体Colaboに対する根拠のない攻撃を材料にとって、ネトウヨの悪質さを指摘している。かれらがいうには、そうしたネトウヨの攻撃に、東京都の担当者が委縮し、その結果女性支援事業が損なわれているのは、ネトウヨに成功体験を味わせるもので、かれらの行動をエスカレートさせることになり、看過できないということだ。けだし、行政はこうした問題に直面すると及び腰になる傾向が強いようである。

藤田直哉の「ネットはユートピアか? ミソジニーとサブカルチャーのインターネット史」と題する小論は、現在のネット空間を跋扈するネトウヨの特徴を分析したものだ。藤田は、ネトウヨに言論空間を提供した2チャンネルの分析を通じて、日本のネトウヨの特徴として、ミソジニーとかサブカルチャー的なものへの回帰願望があげられるという。サブカルチャーというのは、「80年代的な、電子音楽や、アニメ、ゲーム、お笑い、ポルノ」など、かつて日本の社会的な雰囲気を形成していたものだ。それがいまでは、場合によっては、胡散臭く見られるようになった。そういう社会の偽善性に反発して、「自由で気楽で平和で楽観的な生き方に<戻りたい>という願望」が、サブカルチャーへの回帰願望なのだという。

そういう連中は、自分を弱者に位置づける一方、女性やLGBTなどが様々な配慮を受けていることに我慢がならない。そこでそうした人々に攻撃の矢先を向けることになる。かれらは、競争に敗れた弱者なのだが、その弱者としてのうっ憤を、社会に向けるのではなく、自分より弱いと思われる他の弱者に向けるというのだ。

いわゆるネトウヨについてのこうした見方は、先般「世界」に掲載された「ひろゆき論」と共通するものがある。「ひろゆき論」の筆者伊藤昌亮は、ひろゆき現象を支えている連中を「ダメな人たち」と呼んでいたが、「ダメな人たち」とは、言い換えれば負け組に属する人たちである。そういう負け組という特性を、藤田のいうネトウヨたちも共有している、と言えそうだ。

こうした新しいタイプの右翼は、伝統的な右翼と比較して、どのように定義したらよいか。藤田は、厳密に定義しているわけではないが、一応伝統右翼をナチスで代表させ、その特徴を民族共同体への回帰願望に見たのに対して、ネトウヨの特徴については「ポストモダン的でサブカルチャー的なものへの回帰願望」に見た。

この分類に従えば、日本会議に代表される政治的な右翼運動は伝統右翼の現在の姿ということになり、ネトウヨは全く新しいタイプの、つまり文字通りネット時代の右翼の姿ということになるだろうか。どちらの(日本の)右翼も、ミソジニー(女性嫌悪)とかLGBTへの反感を共有している。





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