大岡昇平の歴史小説論と鴎外批判

| コメント(0)
岩波の「同時代ライブラリー」から出ている大岡昇平の「歴史小説論」は、前半で彼自身の歴史小説論を、後半でそれの応用としての森鴎外の歴史小説批判を載せている。まとまった著作ではなく、折に触れて書いた文章をまとめたものだ。

大岡は、自分自身の戦争体験を書くことから作家としてのキャリアを始めた。自分自身のこととはいえ、歴史のある時期を対象としていることでは、歴史意識と無縁ではない。じっさい「レイテ戦記」などは、小説というよりは、歴史的な記録といってよい。そんなことから大岡は、近代日本の歴史小説にそれなりの関心を示したのだろう。

大岡が歴史小説のあり方について自覚的になったのは、1960年代以降のことらしい。60年代のはじめに、鴎外研究で知られる国文学者の尾形仂と論争したことがあり、それがもとで鴎外における歴史意識の小説への反映の仕方について考えるようになり、また、彼なりの歴史小説ついての考えに基づいて鴎外を批判するようになった。その批判はかなり手厳しいものであり、尾形のような鴎外心酔者にとっては我慢のならないものだったようだ。しかし、大岡は鴎外を憎んでいるわけではない。かえって文学者として敬愛している。だが、鴎外の歴史小説には不純な要素が含まれているといって、それを取り出して批判するのである。

大岡はルカーチの歴史小説論を高く評価していて、歴史小説の良しあしを、歴史の動きをいかにリアルに表現できているかに従って判断するところがある。その場合に、登場人物が、社会やそれがおかれている時代環境から超越しておらず、社会的な人間関係をダイナミックに表現していることを重視する。時代を生きる人間たちは、抽象的な人間ではなく、具体的な人間として、彼自身の階級の利害を体現したものとして捉えられねばならない。そういう見方はルカーチの階級意識論の影響を受けたものであろう。大岡はそうした基準から近代日本の歴史小説を論じ、江馬修の「山の民」をもっともすぐれたものとする一方、島崎藤村の「夜明け前」には重大な欠陥を認めたりするのである。「山の民」は、今では忘れられた作品といってよいが、それは江馬が政治的な偏見の犠牲になっているのであって、そうした偏見を離れて、この小説を公平に取り扱うべきだというような口吻を大岡は漏らしている。

ともあれ大岡は、晩年になると自身が歴史小説を手掛けることとなり、「天誅組」とか「堺港攘夷始末」を書くことになる。だから彼の歴史小説論は、単なる批評家の小説批評にとどまらず、彼自身の創作態度にもかかわるものとなった。かれはその創作態度を確立するうえで、歴史小説のあるべき姿を模索したということだろう。

大岡の歴史小説論の基本的な骨格は、鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」に依拠した部分が大きい。鴎外は、一方では事実そのものに忠実たるべきだと言いながら、それに多少の粉飾を施すのは、小説という性格から許されると考えていた。歴史小説として歴史的な事実を尊重しつつ、文学的な装飾にも存在余地を認めるという、いわば折衷的なやり方というべきものを、鴎外は唱えていたわけである。ところが鴎外の実際の作品を分析してみると、そこには必要以上の事実の捻じ曲げがあったり、また捏造もある。そういって大岡は、鴎外の言行不一致を非難するのであるが、なぜ鴎外がそんな不一致に陥ったかといえば、それはかれの俗物性に由来すると、手厳しく批判するのである。

大岡の鴎外の歴史小説への批判がもっとも強くあらわれるのは「堺事件」をめぐってである。大岡は、鴎外がこの小説を限られた資料に制約されながら書いたことに理解を示しながら、それにしても事実の取り扱い方に、重大な問題があるとしている。その指摘を要約すると、次のような点である。土佐藩士を美化するあまりにフランス人を卑小に描いている、事件を起こした土佐藩士の処刑は朝廷と新政府の強い意向によるものであり、それは当時攘夷から開国へと新政府の外交政策が大転換したことを反映していた。そのことは、限られた資料からも読み取れるはずなのに、鴎外はわざとそれを土佐藩の意向だというふうに捻じ曲げた。それは、鴎外が新政府側の高級官僚として、新政府側の不都合になるような事実を歪曲したのであろうと大岡は推測している。つまり、きわめて政治的な意向が働いていたというのである。

鴎外のそうした態度は、かれが長州閥の領袖山縣有朋の提灯持ちみたいなことをしていたことと関係があると大岡は推測する。鴎外は津和野藩の出身だが、津和野藩は事実上長州藩の属領みたいなものであり、鴎外はそういう出自からして、山縣の提灯持ちとして官僚世界で出世することができた。その官僚としての役人根性が、鴎外をして歴史の捏造に手を染めさせた、と大岡はなかなか手厳しいことを言うのである。

鴎外の役人根性は、「阿部一族」や「大塩平八郎」にも見られると大岡は言う。「阿部一族」では、一族が細川藩の財政整備のために取りつぶされたとしながらも、阿部一族には共感を示さす、かえって役目意識から一族を討った隣人柄本又七郎に共感している。また、「大塩平八郎」では、大塩の無謀さを冷笑する一方、大塩を討った能吏の坂本玄之助を共感を込めて描いている。鴎外にはこうした有能な官僚を喜ぶようなところがあったと大岡は言い、それもまた鴎外の役人根性の現れだと推断するのである。鴎外は明治政府に対して妥協的であったから、阿部一族や大塩平八郎が立ち向かった封建的な権力に対しても妥協的であったと言うのである。

大岡が「『堺事件』の構図」を書いたのは1975年。その中で彼は、この事件を自分なりに解釈して、その結果を何らかの形で発表するつもりだと予告していた。おそらくそのあたりから、堺事件をテーマにした歴史小説の執筆を始めていたのだと思う。それは未完に終わったが、彼の死後すぐに「堺港攘夷始末」というタイトルで出版された。






コメントする

アーカイブ