仏性その二:正法眼蔵を読む

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「仏性」の巻の第三段落以降は、道元が古仏と呼ぶ禅師たちの言葉を手掛かりにして、仏性とはいかなるものかについて評釈したもの。道元自身の大宋国における修行体験についても触れられている(第八段落)。ここでは逐語訳するのではなく、各段落の要旨について解説したい。

第三段落は、第十二祖馬鳴が十三祖に教示したという「仏性海」についての解説。「仏性海」とは、仏法の広大無辺なことを海にたとえた言葉。それについて馬鳴は次のように語った。「山河大地皆依建立、三昧六通由茲発現」。山河大地はすべて仏性海によって建立され、すべての存在は仏性界によって発現する、という意味である。ということは仏性海はすべての存在者の根源だというわけであろう。

第四段落は、四祖大医道信と五祖大満禅師との仏性についてのやりとりについて語る。五祖が始めて四祖に逢った時、いまだお前に教えることはできぬが、お前が生まれ変わってしかも教えにふさわしい人間になったら、その時に教えてやろうと言った。五祖はいったん死んで、生まれ変わり、周氏に養われた。そして四祖と逢った。その時四祖は、お前の姓は何というと聞いた。五祖は当然周氏なのであるが、そうは言わずに、「姓はあるにはあるが、常の姓とはちがう」と答えた。四祖は「じゃあ何というのか」と聞くと、五祖は「仏性である」と答え、それに対して四祖は「お前に仏性なし」と言った。それに対して五祖は、「仏性空なる故に、所以に無と言ふ」と答えた。その意味は、仏性とは本来空であるから、それで無というのです、ということである。つまり五祖は、仏性の本来の意味は、すべての存在は空であるとさとることだと言ったわけである。ここではだから、「空」は「無」と同義に扱われている。

第五段落は、六祖曹谿山大鑑禅師と五祖とのやりとり。五祖が六祖に「お前はどこから来たのか」と問うと、六祖は「嶺南人だ」と答えた。五祖が「何しに来た」と問うと、「作仏を求めに来た」と答えた。すると五祖は、「嶺南人は無仏性である、どうして仏になれようか」と言った。「作仏」とは仏になるという意味である。まず「無仏性」という言葉の意味が問題だ。単に仏性がないと解釈すると、そこで話が終わってしまう。この「無仏性」は「有仏性」との二項対立にあるものとしてではなく、仏性そのものを現わす言葉というふうに解釈しないと、議論の展開に道筋がたたない。そこでこの「無仏性」を「仏性」と捉えたうえで、議論を追うと、「仏性かならず成仏と同参するなり」という言葉が出てくる。仏性は、成仏(作仏)したあとに実現するものではなく、同時に実現するものだということだが、それはどういうことかというと、「お前はすでに仏になっているのだから、それを自覚することが肝要だ」ということであろう。

第六段落は、六祖の「無常」についての説示をめぐるもの。六祖が門人に示した言葉「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善惡一切諸法分別心なり」をめぐって議論が展開する。主題は無常である。その無常を有常に対比させる。有常とは分別知によって実体的なものとして捉えられた対象をいう。世間的な意味での存在のことである。それに対して無常とは、実体性をもたないものをいう。般若経の教えで、「空」とよばれるような存在態様のことである。ここで興味深いのは、人間のみならず、草木叢林、国土山河もまた無常であり、したがって仏性を有するとするところである。つまり仏性は、あらゆる存在を基礎づけているとみなされるわけである。

第七段落は、第十四祖龍樹の教えをめぐるもの。龍樹は大乗仏教の学派「中観派」の創設者であり、「中論」など多くの仏書において、「空」の思想を展開した。中観派自体は、「般若経」をもとに「空」の思想を展開したものとして、大乗仏教各派にとって共通の思想的拠り所となったわけだが、特に道元は龍樹を尊崇する念が強かったようである。ここでの議論は、仏性は形ではないという思想を中心に展開する。形ではないということは、言い換えれば「空」であるということだから、要するに(この段落は)「空」の思想を説いているわけである。俗人からなじられたことに対して、「仏性は形のあるものではない」と答える。「仏性大に非ず小に非ず、広に非ず狭に非ず、福無く報無く、不死不生なり」というのである。あえていえば、仏性を知るのは、「蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は廓然虚明なり」ということになる。これは座禅の姿を現したことばである。座禅の姿のうちに、人は仏性を見ることができるが、それは感覚的なものではない。あくまでも抽象的なものである。「廓然虚明」とは空虚なさまを形容する言葉だが、座禅の姿にはその空虚が宿っているというわけであろう。

第八段落は、大宋国における道元自身の、歴代禅師の肖像画をめぐる体験を語ったもの。道元はそれらの肖像画の仏教的な意義についてさまざまな人に訪ねたが、誰一人まともに答えるものがなかった。そこで道元は、説明できないようなものを、絵に描くことは無用だと批判する。もし描くとすれば、端的に描くべきである。それは仏性を本来の姿である円月相として描くべきであろう、というのが道元の主張である。仏性は、それを描くとすれば、丸くて空虚なものでなければならない。この部分は、本場大宋国の僧侶でも答えられなかったことを、自分は体得しているという自負がこもっている部分だ。







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