「アンチ・オイディプス」は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが初めて共同で執筆した作品だ。二人が出会ったのは1968年のことで、それから四年後にこの著作を出している。その後、「カフカ=マイナー文学とはなにか」(1974)、「リゾーム」(1976)、「千のプラトー」(1980)、「哲学とは何か」(1891)を共同執筆し、密接な関係を保った。ガタリが死んだのは1992年であり、ドゥルーズはその四年後に死んでいる。
二人が出会ったときには、ドゥルーズは「差異と反復」(1968)を書いており、その翌年には「意味の論理学」を書いている。「差異と反復」は、同一性を中核概念とした伝統的な西洋哲学(形而上学)を解体しようとする試みであり、「意味の論理学」は、西洋哲学の解体のあとに、新しい哲学の一つのモデルとして提示したものといってよかった。そんなわけで、当時のドゥルーズの問題意識には、伝統的な形而上学にかわる、哲学の新たなモデルを提示するということがあった。「意味の論理学」は、まだ粗削りなところがあって、それだけでは、新しい哲学のモデルとしては不十分かもしれない。そんなふうに思っているところにガタリと出会い、ガタリの問題意識が自分のそれと共振するところがあると考えて、共同執筆に乗り出したと思われる。
小生は、ガタリについては全くの門外漢だが、ラカン派の精神分析家だそうである。そうした立場から現代社会を批判したということらしい。現代社会とは、資本主義の社会と言ってよいから、現代社会の批判はいきおい資本主義の批判ということになる。じっさい、かれらが最初の共同作業「アンチ・オイディプス」で展開したのは資本主義の批判であるから、ドゥルーズのほうも資本主義批判に大きな意義を認めていたといってよいだろう。ドゥルーズの基本的な意図は、西洋の伝統哲学を解体して、それにかわるまったく新しい哲学を打ち立てることにあったから、かならずしも資本主義を批判することを直接の目標としていたわけではなかった。だが、もしも資本主義の批判が、西洋の伝統思想の解体に大きなかかわりを持つとすれば、それは自分の問題意識と直接つながるのではないか。そうドゥルーズが考えた可能性はあるわけで、もしそうだとすれば、この著作は「差異と反復」、「意味の論理学」の延長上の仕事といってもよい。
「アンチ・オイディプス」と題したこの著作の当面の目的は、オイディプス・コンプレックスを中核としたフロイトの精神分析を批判することである。その著作「資本主義と分裂症」という副題を持っている。ということは、かれらは、オイディプス・コンプレックスを資本主義と密接に関連付け、両者をともども根本的な批判にさらすことを狙ったといえる。そして、資本主義の限界を超えるためには、資本主義の反対原理である分裂症に一役果たさせようと考えたのではないか。「資本主義と分裂症」というタイトルは、この書物だけではなく、「千のプラトー」にも付せられている。というよりか、「資本主義と分裂症」についての研究が、二つの書物を通じて展開されたといえるのである。
資本主義、神経症、分裂症というのが、かれらの議論の中核的な概念である。これら三者の関係をごく簡単にいうと、資本主義に固有な限界が、神経症と分裂症に反映する。資本主義の欺瞞性を、人間にとって生きやすいものにするために、人間自身が欺瞞的になる必要がある。その欺瞞性を受け入れた人間は神経症にならざるを得ない。精神分析はその神経症を治療するための武器である。もっともその武器を以てしても、神経症は根本的に治癒することはない。なぜなら、資本主義の欺瞞性が神経症を発症させているからであり、したがって資本主義がなくならないかぎり、神経症もなくならないからだ。一方、分裂症のほうは、かれらによれば、資本主義の欺瞞を、そのまま欺瞞として受け止め、自分からそれになれなれしく振る舞う人間を生み出す。そうした人間の存在は、資本主義にとって不都合だ。だから資本主義はかれらに狂人というレッテルをはって、社会から排除しようとする。
そんなわけだから、資本主義、神経症、分裂症の間には深い関係がある。その関係を白日のもとにさらしながら、資本主義の欺瞞性をあばきだし、それを解体することが、新たな人間社会の建設にとっての根本的な条件になる。そうした問題意識をかれらは抱き、その問題意識を通じて、現代社会の徹底的な批判と新しい社会の展望を提示しようとした、というのが、「資本主義と分裂症」というプロジェクトの目的であった、と整理することができるのではないか。
以下、この著作を読み解いていきたいと思うが、その前に、この書物の異常ともいえる難解さについて触れておきたい。哲学の書物というのは概して難解なものだが、この書物の難解さは尋常ではない。その理由をとりあえず二つあげる。一つは用語をめぐる問題。用語自体が特異なうえに、その使い方も型破りである。哲学に限らず、なんらかの思想を提示しようという場合には、一定の概念について、それを事前に定義したうえで、その概念を駆使して思想を展開するものである。ところがこの著作は、概念の内容を定義せずに、いきなりそれを用いて議論を展開する。しかもその概念の名称(シニフィアンと呼ばれるものだ)が全く伝統とかけはなれた奇天烈な類のものが多い。この著作には欲望する機械とか資本主義機械とか「機械」という言葉がやたらに出てくるが、それについての明確な定義はない。少なくともその機械という言葉の内実が、われわれが常識的な意味で使うものとは異なっているとわかるくらいが関の山である。概念を明確に定義しないだけではない、議論の進行も常識を逸している。翻訳者の市倉宏裕が訳者あとがきの中で指摘しているように、この本は「それ」への言及から始まるのだが、その「それ」が何をいうのか、皆目手掛かりがない。万事がそんな調子で、読者は何が書かれているかについて、それを理解するのに極度の緊張を強いられるのである。
難解さのもう一つの理由は、全体が非常に息の長い文章で成り立っているということである。普通の文章は、せいぜい二・三百字を単位として改行するものだが、この著作の場合は、原稿用紙にして八枚くらいでやっと改行する。普通の読書は、改行するたびに、それまで書かれていたことを確認しながら先に進むという方法をとる。改行がずっと先だと、段落ごとの文章をまとめて理解するのに骨がおれる。改行に達する頃には、段落の初めの部分で書かれていたことが脳裏から薄れる。だから、書いていることをずっと理解していくためには、一段と忍耐深い集中力が必要である。フランス哲学の書物は概して息の長い文章を好むものだが、この書物における文章の息の長さは異常といってよい。小生のような老人には、非常にこたえるのだ。
コメントする