「アンチ・オイディプス」という書物の第一章のタイトルは「欲望する諸機械」であり、その第一節は「欲望する生産」と題されている。「欲望する諸機械」といい「欲望する生産」といい、実に奇妙な言葉である。どちらの言葉にも欲望という言葉が含まれているから、どうやら欲望がカギを握っているようである。実際、欲望という言葉は、この書物のいたるところで現れるから、この書物の提示する思想の中核をなすものだと見当がつく。それが諸機械と結びついたり、生産と結びついたりする。しかし、欲望が諸機械と結びついたり、生産と結びついたりするというのはどういうことか。欲望は極めて人間的な感情を表す言葉であり、機械とは直接結びつきそうにない。機械は人間がそれを用いて対象に働きかけるための道具のようなものではないのか。だから、欲望の主体は人間であり、その人間が機械を用いて対象に働きかけるということはできるが、機械そのものが欲望するとはいえないのではないか。「欲望する諸機械」とは、機械そのものが欲望するというイメージを喚起する言葉だ。「欲望する生産」という言葉についても、同じようなことが言える。欲望の主体としての人間が何者かを生産するということはできるが、生産そのものが欲望だとは言えないであろう。
冒頭からして、こんな調子であるから、読者はきわめて緊張を強いられる。なにしろ常識から逸脱した言葉の使い方をしているので、読者はそれを理解するために、一ステップ余計な精神作用を動員せざるをえないのだ。それはともかく、機械という言葉は、どうやらガタリが好んで用いた言葉のようである。機械という言葉でガタリは、自律的に働くシステムのようなものを意味している。社会機械とか資本主義機械とかといった具合にである。そうした意味合いだというふうに考えれば、「欲望する機械」という言葉にも、何らかの意味があるように思われる。「欲望するシステム」というふうに読み替えれば、システムを擬人化したうえで、それが欲望していると考えることには無理がないからである。
では、「欲望する生産」という言葉のほうはどうか。これについては、哲学史を背景にした言葉遊びのようなものがからんでいる。プラトンが欲望を欲求と混同して、欲望=欲求とは、自分に欠けているものを希求することだと主張したことは有名なことだ。こんな主張から、男は自分に欠けているものを補うために女性を求め、女性も同じ理由から男を求めるというような言説が幅をきかせてきた。そういう考えに異を唱えたのはカントだったと彼らは言う。カントは欲望を次のように定義した。欲望とは、「欲望が抱く表象を介して、これらの表象されている対象の実在を生み出す能力」であると。このカントの定義を踏まえてかれらは、欲望とは生産する能力だというのである。このように考えれば、「欲望する生産」という言葉もすとんと腑に落ちる。
彼らは、欲望を生産する能力だとしたうえで、その欲望を人間のすべての活動の原動力と位置付ける。そのへんは、ベルグソンの弟子を自認するドゥルーズの意向が強く働いているのであろう。ベルグソンは、人間性を誘導する原理としてエランヴィタールという概念を持ち出した。ドゥルーズらの欲望は、ベルグソンのエランヴィタールに相当するものだと思われる。エランヴィタールが、人間性とか世界の歴史を駆動してきたと同じ意味で、欲望が人間性を駆動してきた。それは無意識的に働くものである点で、フロイトのリビドーと似ている。じっさいかれらは、衝動としての欲望をリビドーという言葉で表している。
この書物はいたるところでフロイトを引用しているが、それはラカン派の精神分析家であるガタリの意向によるものであろう。だが、かれらはフロイトを肯定的なニュアンスでは取り上げていない。むしろ否定的である。というよりこの書物は壮大なフロイト批判の書なのである。かれらがフロイトを批判する理由は、フロイトがリビドーを否定的に扱い、リビドーの解放ではなくその抑圧を、自分の体系の原理にしたことである。そうしたやり方に対してかれらは、欲望の解放を主張する。
かれらによれば、フロイトは西洋思想の権化のような人物である。西洋思想を批判する基準を、かれらはニーチェに求める。ニーチェは西洋思想の厳しい批判者だったわけだが、そのニーチェが西洋思想を批判するやり方は、その俗物性とか負け犬根性といったものへの容赦なき攻撃である。西洋思想はキリスト教の道徳によって毒されているが、その道徳は、弱者の強者へのルサンチマンのうえに成り立っている。そのルサンチマンが弱者の負け犬根性を合理化するのだ。ニーチェによれば、人間がより高い水準に自己を高めるためには、超人があらわれて、かれの持つ可能性を最大限に発揮することが必要である。人類の発展は、超人がこれを先導し、かれが達成した成果をほかの人間らが享受する、そうしたあり方が人類の発展の王道なのだ、というのがニーチェの思想である。それを実現させるためには、超人は自己の可能性を最大限発揮できるのでなければならない。
ところが、フロイトはそうした考えを許さない。超人のようなものがその欲望をむき出しにするなどとはもってのほかである。欲望は解放されるのではなく、抑圧されなければならないのである。フロイトの理論は欲望の抑圧ということの上に成り立っている。彼自身は明確には意識していなかったにしろ、そうした理論が資本主義に非常に都合がよかったので、かれの精神分析の学説は異常な繁栄ぶりを謳歌できたのである。かれらによれば、フロイトは資本主義の守護天使なのである。それゆえ、資本主義の根本的な批判を目指すかれらにとって、フロイトは当面する最大の敵ということになる。この書物は、フロイトとの対立をつうじて、資本主義の根本的な批判とその解体のイメージについて模索する試みといってよい。その目論見が成功しているかどうかについては、色々な見方があると思う。
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