落子、山夫妻、松未亡人と久しぶりに歓談した。場所は丸の内のビル街にある土佐料理屋祢保希。明治安田生命ビルの地下にある。このメンバーで会食するのは、松子の一周忌以来だから実に五年ぶりのことである。その間にコロナ騒ぎがあったりして、なかなか集まる機会に恵まれなかった。いまこうやって会ってみると、みな精彩のある表情をしていて、息災に暮らしているらしいことがわかる。
生ビールで乾杯したあと、まず小生が口を開いた。皆さんお元気そうでなによりです。小生は先日ちょっとした用向きで80過ぎの老人たちと往来することがありましたが、80台半ばの老人たちが実に矍鑠としていました。かれらのそんな様子を見て、小生もあと十年は元気に生きられるかもしれんと思いました、といったところ松未亡人が、勇気づけられたわけですね、よかったですね、と言ってくれた。
そこでお互いに近況を述べ合った。山子は肺の状態が非常に良くなっているようにみえる。昨年新丸ビルで会ったときには、まだゼイゼイといっていたが、いまはそんな様子は見えない。落子は、先日京都で大学の同窓会をやったそうだ。昔の仲間数人が集まって和気藹々と飲んだそうだ。小生も一昨年ロシア語クラスの連中と新宿で同窓会を開いたよ、そういったところ、みなそれぞれつながっているのだね、と山子が感想をもらした。
松未亡人は、ご母堂がなくなり、鰥寡孤独の身になったそうだ。相続人がいないので、自分で自分の始末をつけなければなりません。そこで身辺を片付け始めています。キレイさっぱりの身で死を迎えたいですものねという。山夫人は、母親の面倒をみるだけではなく、母親の姉と妹の面倒までみています、という。三人ともいい年をして喧嘩ばかりして、そのたびに私に愚痴をこぼすのですよ。私は今年60歳になるのですが、これを潮に現役を引退して、老後を楽しみたいと思います。そうも言うので、そうしたほうがいいかもしれませんね、そのためには毎日を退屈しないですむように、なにか心を打ち込める対象をいくつかもっておかねばなりませんね、と小生は感想を述べた。
我々が案内された部屋は、掘りごたつ式にあつらえていて、食卓の上に土佐ゆかりの人物を描いたグラス受けが置かれていた。図柄を見ると、坂本龍馬、中岡慎太郎、板垣退助、吉田茂。牧野富太郎の顔が見える。小生は、牧野などよりも幸徳秋水のほうに土佐人は誇りを持つべきだと言った。吉田茂の大磯の別荘は焼けてしまって、再建中だそうだよ、と山子がいう。吉田はどんな機縁で戦後の指導者になれたのかね、と聞くから、あれはもともと土佐の自由民権一派の出身で、牧野伸顕の娘と結婚したのが出世の糸口さ、と説明した。
坂本龍馬が維新の英雄にまつりあげられたのは、土佐閥の政治力のたまものだろう。土佐より長州のほうが政治力はあったから、龍馬より吉田松陰のほうが大物扱いされている。松陰は常識からいえば一介のテロリストだったわけで、長州閥が権力を握らなかったら、ただの陰謀家ですまされていただろうね。もっとも松陰の思想は植民地主義そのもので、維新後の日本を予測させるものをもってはいたがね。
色々と話題があちこちするうちに、この会がどのようにして成り立っていったかについて、小生が回想した。山・松・小生の三人は大学で同じゼミだったこと。学生時代にはたいして深い付き合いはなかったが、同じところに一緒に就職したことを機縁に付き合いを深めたこと。また、落子とは大学時代一緒に運動をした仲で、仕事のかかわりで身近にいるのに気づき、われわれの仲間に引き入れたこと、などだ。
あなたは役人らしく見えませんが、なぜ都庁に入ったのですか、と山夫人がきくので、小生は四人兄弟の長男坊で親を養う覚悟がありました。親と一緒に暮らすには、派手な転勤のないところがいい。都庁というところは、そうした転勤をしないでもすむと聞いて、入ったのですよ、と答えた。おかげで親の死に水をとるまで一緒に暮らすことができました。小生は母親が19歳の時の子で、親と年齢差が少ないのですが、両親はどちらも短命で、そのため自分が元気なうちに親の面倒を見ることができました。こういうと松未亡人が、わたしは母が17歳の時の子ですが、年齢差が小さいために、母親が高齢になるのと同時に自分も年をとるので、いきおい老々介護のような状態になってしまいました、と言った。
土佐料理屋とあって、鰹を使ったものや、鯨を使ったものが出された。なかなかうまい。鯨などは近頃ほとんど食う機会がないので、たまに食うとうまいですね。子どものころ学校給食で鯨のステーキがよく出てきたものですが、いまは商業捕鯨ができなくなって、鯨とはすっかり縁が薄くなってしまいました。欧米の連中は、灯油の原料として鯨をとっていましたので、その必要がなくなると、一転して鯨の保護などと欺瞞的なことを言うようになった。じつにご都合主義的ですな。ところで、日本の捕鯨は歴史が古いのでしょうか。先日井伏鱒二の小説「ジョン万次郎漂流記」を読んだところ、ジョン万次郎自身はアメリカ人から捕鯨の技術を学んだとありました。だから少なくとも、土佐には捕鯨の風習がなかったのかもしれない。
話題は土佐から世界にとび、ウクライナやガザで行われているひどい事態について感想を述べ合った。とくにガザの大虐殺にはみな憤りを覚えているようだった。ユダヤ人はあんなことをして、自分で反ユダヤ感情を煽るようなことをしている。そのうちそのしっぺ返しを受けるようになったとき、だれもユダヤ人に同情しなくなるだろう、というのが、その場に居合わせたものの共通の思いだった。
こんな次第で、五年ぶりの歓談が和気藹々とした雰囲気のなかで進んだ。また機会を作ってやりましょう。そういいながら散会した次第だった。
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