説心説性 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第四十二は「説心説性」の巻。説心説性は、一般的な仏教用語ではなく、洞山悟本大師が言ったとされる言葉である。洞山悟本大師は曹洞宗の始祖であり、道元にとっては最も重要な仏祖であるから、その言葉を道元はことさらに重視していた。この巻は、そんな洞山悟本大師の味わい深い言葉の一つを取り上げる。

説心説性は、文字通りには「心を説き、性を説く」という意味である。心は人間の精神現象、性は本質とか真理といったことを意味する。だから「説心説性」ということで、精神現象としての本質とか真理を説くというふうに解釈されるが、道元自身は、この言葉についての細かい詮索はしていない。この言葉によって、仏教修行のあり方をさしているようである。

巻は、洞山語録の中のつぎのようなやり取りを紹介することから始まる。洞山が神山僧密禅師と行脚していたとき、禅師に向かって傍らの禅院を指さし、この中では「説心説性」が行われていると言った。禅師が誰が行っているのかと尋ねると、その一問でいっぺんに死んでしまったと答えた。禅師が重ねて誰がやっているのかと問うと、大師は死中に活を得ることができたと答えた。

このやりとりの意味するところについて道元は深い考察を加え、「説心説性」が仏教修行の要諦だということを説くのである。ただ道元は、説心説性という言葉の意味するところをつまびらかに説明することはしない。その意味がすでに分かっていることを前提にして、その言葉の意義を説くのである。

このやりとりについて道元は次のように言う。「説心説性は佛道の大本なり、これより佛佛祖祖を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、轉妙法輪することなし、發心修行することなし。大地有情同時成道することなし、一切衆生無佛性することなし」。これは、説心説性が仏道の大本だと言っているのだが、ではその説心説性が具体的に何をさすのか、については、次のような比喩的な言い方ですませている。「拈花瞬目は説心説性なり、破顔微笑は説心説性なり、禮拜依位而立は説心説性なり、祖師入梁は説心説性なり、夜半傳衣は説心説性なり。拈拄杖これ説心説性なり、横拂子これ説心説性なり」。いくら比喩的言い方といっても、破顔微笑や杖を振るうことがなぜ説心説性なのか、いまひとつわからぬところがある。

続けて、「おほよそ佛佛祖祖のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり」と言っている。さとりを得たものの境地こそが説心説性だという意味だろうが、道元はその先のところで、説心説性は、仏教修行のあらゆる段階で問題となるといっているから、要するに、仏教修行のあり方をさしているのだと捉えられるだろう。

徑山大慧禪師宗杲という高僧が、「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし」といって、説心説性を軽んじたことがあったが、それに対して道元は厳しく批判している。宗杲がそう言うのは、説心説性を、単に言葉の解釈の問題として矮小化しているからで、説心説性を仏教修行の心得と捉えるならば、そのような言い方をできるわけがないと反論するのである。

初祖達磨と二祖慧可のやりとりに触れた後、道元は再び冒頭のやり取りにもどり、説心説性の意義について述べる。その中で「説心説性」とは「説仏説祖」に異ならないと述べている。つまり説心説性とは、仏たちのさとりの実践に習うことなのだというわけであろう。

道元はこの巻を次のような言葉で結んでいる。「しるべし、唐代より今日にいたるまで、説心説性の佛道なることをあきらめず、教行證の心性にくらくて、胡説亂道する可憐憫者おほし。身先身後にすくふべし。爲道すらくは、説心説性はこれ七佛祖師の要機なり」。






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